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今日のス すんなりと受け入れた死の話

世の中が
コロナ怖い、恐ろしい菌ですと
ヒステリックな
報道にそまっていくにつれ

コロナよりも
報道の中身を吟味しないで
簡単に影響を受ける人間の方が怖いと
感じる日々です。

死ぬという事よりも

あなたの大切な人の生命のため自粛してと
言われたら


心に響く人と
嫌な圧力と感じる人
特に何も感じない人

色々いらっしゃると思いますが
私は嫌な同調圧力に
感じた方です。

生命大事に決まってるから
度々生命のための行動を
というのであれば
むしろ
飲食運転、危険運転の方では
ないかと思ってしまいます。

ウィルスはコントロールできるわけが
ないし、次々と非科学的な行動を
要求されているわけですから
疲れます。

2メートル間隔を空けるというなら
学校教育は無理ですし
接客業は成り立ちません。


異論は、生命大事の言葉のもとに
同調圧力を受けていく。

本当の自然が生み出す結果が出るのは
間も無くなので
声高に叫んだ専門家も
政治の中枢で自論にこだわり
結果、自粛行動に追い込んだ
専門家には
二度と中心に戻らないように
見守っていかなくてはと
思っています。

生命が大事という一言で

過剰に同調していく理由には

リアルにいろんな死があることが
人々に知られていないからかも
しれないと考えました。

死は悲しい
死は苦しみ
死は後悔

愛する人が死んだら
そう考えれば
苦しすぎるというのも
本当だと思います。

けれども

それ以外の
ただの自然現象という
解釈も存在します。

私の祖父が死んだ時の話を
書いてみます。

私の父方の祖父母は
それぞれ99歳まで、生きました。

祖父母は、長男の嫁である母が
通いで世話をしていました。
ヘルパーさんや、入浴サービスも
併用していたのですが
祖父の頭と計算はしっかりしており
自分で自分の介護プランをたてて
預金の入出金、綺麗なスタッフさんの来る日
なども、管理していました。

一度祖母の手の甲に
サロンパスがたくさん貼ってあるので
理由を聞くと、綺麗なスタッフさんを
祖父が気にいっていて
祖母のやきもちから
2人で小さな口論になり
祖父が小さく投げたものが
90代ではコントロール不可で
祖母の手の上に落ちたので
腫れたのでした。

祖父がしっかりしている事実は
関係のない人には
素晴らしい話に映りますが

介護をしていた身内にとっては
介護される側のわがままが
優先されて

介護している方が
我慢を強いられる

身内の逆転した主従関係が
精神的な疲労として蓄積していき
後半は、母の顔面麻痺を
ひき起こしていました。

一度、介護に疲れてしおしおと母が
泣いていた日がありました。
それをみていた弟が立ち上がり
「よし、今から火をつけて爺さんちを
火事にしてくるよ。タバコの不始末のせいになるから全部家ごと燃えて終わりにしよう。
もう、これで終わりだ、お世話はキレイさっぱり終わり!もう安心しなよ。」

弟の言葉に、母は号泣して
「そんなことしたら、貴方が犯罪者になるからダメよ、お母さん頑張るから、そういう事はやめてね」

そんなやり取りも起きていました。

父はといえば、自分の両親のことですから
介護を改めてお願いするわけでもなく
嵐に耐えて事なかれに、身を守るだけで
母に気を使う様子をみせて黙っていました。

その間に両親の間でどんなやり取りがあったのかは知りません。
翌日から、母は元どおり介護の日常に
戻っていきました。

介護の日々の中には
父の兄弟たちとの諍いも
それなりにあり
また介護の日常に戻るという年月を
過ごしていくうちに、介護される当事者の
祖父母は寿命を終えていきました。

祖父の通夜の晩に、父の明るい表情に
「もしかして嬉しい?ほっとした?」
私は思わず聞いてみました。

答えは「そうだよ、ほっとしたから嬉しい」
けろっと答えて自嘲気味に笑いました。

「色々ありすぎて、そんな気持ちになるよね」
わたしもそう言いました。

通夜も葬儀も火葬場でも
介護の日々の妻への記憶れや
責任感から
解放された父は

どうみても悲しみや苦しみも
ありませんでした。

例え病気になってもとにかく
生かされてしまう。

生命最優先の医療と
御長寿を望む高齢者の願望を

様々なサポートが
叶えたことと
引き換えに

高齢者からは
人生の幕下ろしの覚悟と
欲望に一区切りをつけていくタイミングを
失わせたのではないでしょうか。

私たちは
死にいく生命体の一つであること

生命はコントロールできないことを
時々思い出すことは
必要なんだと思います。


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