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壮年と思春期のジレンマ

園児だった頃、自分が何を考え、何を話していたかを覚えている人はどのくらいいるのだろう。
それより以前、母親や父親に何を感じていたのか、何に喜び何に悲しんでいたのか記憶している人は、どのくらいいるのだろう。

幼児だった頃のことを覚えている人と、覚えていない人の違いはなんだろう。

単に記憶する能力の問題なのか。
ニューロンの電気信号のやり取りの活発さや強度によって記憶の深度が違うのかもしれない。
深度が高ければ記憶の定着はより強固なのか。

それともエピソードから受ける衝撃度が記憶の数に関係するのだろうか。
一度に伝わる電気信号の強さ(量?)は一定だが、感動や興奮が続いたりすると何度も電気信号が送られるそうだ。
それにより記憶が定着しやすいのかもしれない。
ならば、その衝撃度の差は何に依るのだろう。

はたまた、親の子供に対する関心の度合いだろうか。
いや、胎児の頃の神経細胞の数に違いがあるのかもしれない。

自分の過去について、小さい頃からの記憶をたくさん持っている人のほうが、倫理道徳をわきまえている場合、芯のある強い心を持ち、個々の事象に対して柔軟で適切な言動を心得ているように思う。

記憶の数の違いは、人間的成長の度合いに大きく影響しているのかもしれない。

私の脳は、私の記憶そのもので稼働している。
私の知覚を、過去の経験と認識と感情を基に分析しアウトプットしている。つまり記憶とはシステムそのもので、人間的成長とはシステムの性能なんだろう。

あぁ、早く高性能のシステムにアップデートしたい。
そのためには、ひたすらなインプットとアウトプットの繰り返しが必要なんだろうな。
恐ろしく効率の悪い私の脳は、もともとCPUの仕様が低レベルだったからだと信じたい。

人生の折返し地点になってもがき始めた私は、いわば、ようやく自我に目覚めたお子ちゃまか。
壮年に紛れた幼い少女を温かく見守ってほしいと願うのはおこがましいが、恥を知っている歳だからこそ、本気で学び実践していく所存だ。
周りよりも遅い思春期を迎えている今、人間として成熟した頃に人生の終焉を迎えるのも悪くないかもしれない。

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