2023年2月22日 手記No.7

今日は、この続きを書く。先延ばしにしていても仕方ない。

私は大学時代に、作品を100鑑賞したら、20くらいは、ウンウン考え込んだものだったが、エゴン・シーレ展に行ったとき正直、「つまらない」と思ったのであった。

私の魂が鈍ったから作品を味わえなくなったと落ち込んだからか、わからない。だが、100のうち20くらいは作品に心揺さぶられて立ち止まっていた頃の鑑賞と、現在の自分の鑑賞において、どのような差異があり、そこでは何が起こっているか。なぜ、作品を良いと思えないのか、考えてみるべきではないかと考えた。私の直感によれば、それは己が「芸術作品を何として枠付けし、何を否定し、何を肯定しているか」という芸術認識の問題に深くでつながっているらしい。

前々回の手記より

 今回の文章では、「現在の自分の鑑賞において、どのような差異があり、そこでは何が起こっているか」を洗い出し、それはつまり作品にとってどういった行為だと位置付けることができるか考える。最後には、「展覧会を、作品をつまらないと考えた自分は、芸術作品を何として枠付けし、何を否定し、何を肯定しているか」まで記述できたら良いと思う。

 まず、大学自体と違うのは「現在の私は素直すぎるほど素直になった」ということだ。人間の性格の話も鑑賞にはもちろん関わる。おそらく大学時代の私は、「この絵、なんか変だな」「いいな」と思ったら、それが言葉になるまで絵の前で立ち尽くしていた。立ち尽くしてまで考えないといけないと思っていたからだ。でもそれは芸術大学に通う学生としての鍛錬で踏ん張っていた節は否定できない。一方、現在では「この絵は、なんか引っかかるような気がするけど、考えたいわけじゃないな」と思えばスタスタと作品を通り過ぎていた。良くも悪くも自分の直感に従っているのだろう。
 自分の直感に従うあまり、芸術作品をみる自分に対して「みなくても良い」という手札の方をより多く渡してしまっている。それはつまり、鑑賞者である以上は作品細部まで見尽くすという足枷を壊してしまっているのではないか。

 
 シーレ展がどんなにつまらなくとも「額縁がいいな」とぶつぶつ呟いていた。呟きながら、「額縁が良い」とはどういうことかと考えていた。額縁とは、第一に作品を埃や外傷から保護する目的があり、第二に作品を魅せるために選ばれている。それを知っていても私が呟いたのは「額縁”が”良い」という言葉だった。
 またしても私は、作品をみていなかったのだろうか?
  
ここで言う「額縁”が”良い」とは、「この作品にあてられている額縁が良い」と言い換えることができる。高密度ではないにしても、作品をまったくみていないという訳ではなさそうだ。
「作品と額縁の親和性をみている」、激しさをもった真赤な色が散りばめられている作品にどんな額縁が添えられるか、あるいは今にも生き絶えそうな顔色の人間が描かれた絵にどのような額縁が添えらえるかをみて、それが相性が良いと感じているのかもしれない。
 
 何をみて良いと感じたのだろうか。
 「作品と額縁の境界線」だ。境界、何かと何かを隔てている線をみていた。では何と何の境界か。「額縁の中にみえる作品/作品に遅延して添えられた額縁」、この二つの間に存在する時間の隔たりをみているのだ。私にとって「額縁が良い」とは、作品と額縁の境界において遅延した痕跡がそこにはっきりと読み取ることができ、かつ作品に飲み込まれる気配のない額縁を、良いと思ったのだ。
 なぜか。おそらく、キャプションをじっくり読んで肝心の作品をちらっとみて何やら満足気に作品の前から去った人にとっても、じっくり作品をみた人にとっても、作品を覆っている額縁を除いて鑑賞することなどできない。作品はほかでもない額縁によって宙に浮き、壁にかけられているのであり、人間でいうところの脚だ。だから、私は下手に作品に従属する額縁よりも、額縁として自立したままの態度で作品を覆っている方が美しいと思った。額縁を含んだ「作品」、そこに内包される遅延までみえることが、作品の筆致表面から奥へとつづく真っ暗闇の謎に潜り込む糸口のような気がしたのだ。「額縁が良い」とは、掘り下げるとどうやらそういうことらしい。

 なんだか、”なぜ、作品を良いと思えないのか、考えてみるべきではないかと考えた。私の直感によれば、それは己が「芸術作品を何として枠付けし、何を否定し、何を肯定しているか」という芸術認識の問題に深くでつながっているらしい”という最初の問いとは離れてしまった。
 だが私は、この長い日記を書き終えようとしている今、己は「作品と作品ではなかったもの(額縁)が遅延して重なり、生まれる境界線(差異)こそ、作品の奥底に潜っていける糸口があるのではないか」と考えていることが自分でわかった。どうやら、つまらない展覧会でも鑑賞する気は確かにあったが故の、結論だと言えそうだ。
 よかった、まだ鑑賞者として腐ってはいないのかもしれない。


追記:
エゴン・シーレ展がつまらなかった理由を備忘録的にも記す。

・キャプションが作品ごとに設置されていたこと
・そして観客の多数がキャプションを読むことばかりに腐心していたこと
・シーレ本人の名言のようなフレーズが、作家写真とともにこれ見よがしに貼られていたこと
・作家自身の死に、展覧会主催側が固執しているような宣伝、ドキュメントが見受けられること

作品と私の相性があるにしても、ざっと外的要因をあげればこれだけある。やはり私は、作家に焦点を合わせるにしても展覧会会場の外に足を踏み出すときに残るのは、作家の悲壮的な半生への同情でなく、作品についての思案であって欲しいと思う。キャプションを読んで、うんうんと頷いて絵をちらりとみて、次々みていく観客を目にするとよくよく観察してしまった。
 (こいつは何をしにきたんだ)と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?