「#くぼした」に関するいち妄想
昨日5月12日の卒業コンサートDAY2をもって、3期生・山下美月ちゃんが乃木坂46から卒業した。2日に渡って東京ドームにて執り行われた卒業コンサートは、山下美月ちゃん自身によるプロデュースによって上演された。とても良い「2DAYSライブ」、良い「乃木坂46ライブ」、そして良い「卒業コンサート」であった。
まずもって「卒業おめでとう」という気持ちでいっぱいだが、コンサートを通して、山下と各メンバーの関係性が度々垣間見れたのも最高だった(とりわけ"親友"伊藤理々杏ちゃんと披露した『1.2.3』、そして彼女からの手紙は感涙であった)。
そんな中、「あれ」にほぼほぼウェイトが割かれていなかったことに、3期生の活躍を長く追ってきたファンならば気づいていることだろう。
言わずもがな、久保史緒里ちゃんとのカップリング「くぼした」である。
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乃木坂46においても、2人のメンバーによるカップリングは度々あった。
ざっと挙げてみても「さゆまい」「あしゅみな」「堀北コンビ」「与田桃」「かきさく」「さつなぎ」など思い浮かぶが、いずれも非常に「コンビ感」「"対"感」がある。飛車角、風神雷神、矛と盾、ウラネプ、そういったなぞらえ方が出来そうなイメージだ。
個々の関係性に差はあれど、例えばユニット曲があったりライブで披露したり、フォーメーションがシンメであったり表題曲のWセンターに選ばれたり、2人でのロケが多かったりシンプルに親友だったり、外からの印象としても「セットである」感じが強い。
そして本人達からも、双方向に向け合っている「コンビである」意識や、2人揃った時だからこそ現れるニュアンス、相方への特別な思い入れを(互いに同じ量だけ)抱いているように見受けられる。
山下・久保ちゃんの「くぼした」もまたこれらに並ぶコンビだとは思うが、その一方、上に挙げたコンビのそれと異なるニュアンスがあると以前から感じていた。
久保ちゃん→山下への想いと、山下→久保ちゃんへの想いとで「非対称性」がある気がしていた。そのことが、卒業コンサート(特にDAY2)を観て確信に変わったのである。
そして同時に思った。
「やっぱり」と。
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卒業コンサートを観て、「山下と久保ちゃんって、悟空とベジータみたいな関係性だなあ」と改めて思った。
悟空とベジータといえば、鳥山明作『DRAGON BALL』における数少ないサイヤ人同士であり、幾度となく拳を交わすライバル、そのことが浸透している今では逆に「代表的なライバルといえば」で名前が上がりそうな2人である。
しかし実は、この2人の関係性は「非対称的」である。
詳しくは、『DRAGON BALL』公式による(心理学の専門家を招いた)コラムによって事細かに解きほぐされているので、これを読んでしまえばほぼ完璧に理解できる。ここではざっくり取り上げるとしよう。
その「非対称性」の正体とは、かいつまんで表現してしまえば「ベジータが一方的に悟空にこだわっている」ことだ。両者の双方向的な好敵手関係というよりは、彼が一方的にライバル視の意識を向けている。
上記コラムに登場する心理学者・太田伸幸先生は以下のように語っている。
「片思いの関係」とは、なるほど良いキーワードである。
こう評されているように、悟空とベジータは一見対等なライバルに見えつつ、実際のところお互いに向けている目線が対称ではない。
以下のようにも語られるが、ベジータが悟空に向けている認識や感情と、同じものを悟空が抱いているわけではないのだ。だから彼は物語終盤、わざと敵に操られてまで悟空との戦いの機会を求めたりもした。
だからこそ、クライマックスにおいてベジータが放つひと言(上記コラムのサムネイルにも使用されている場面)が胸を打つのだ。その言葉は、ベジータが悟空への負けを認めた以上に、そのこだわり自体を捨てた=彼自身が解放されたことを示している。
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っていうような悟空とベジータの雰囲気を「くぼした」からも感じるのだ。
悟空とベジータと同じように、両者が対となる存在であるパブリックイメージ以上に「非対称性」が色濃い関係であるように思う。
「それがかえってエモい」と思ってしまうのも正直な気持ちだが、あまり品のよろしくない感覚なので小声で置いておくとしよう。
そんな「非対称性」が「くぼした」にあると確信した大きな取っ掛かりは、やはり卒業コンサートの内容である。
自分を慕う後輩たちを引き連れた「山下軍団」で新曲を用意したり、"親友"理々杏ちゃんと2人でからあげ姉妹楽曲『1.2.3』を披露する中、「くぼした」ユニットで舞台に立つことは無かった。
久保ちゃんの登場は『言霊砲』披露時であり、それは与田祐希ちゃんと3人でのパフォーマンスであった。恣意的に解釈すれば、山下は久保ちゃんを個別に特別視するのではなく、与田(や大園桃子ちゃん)と同じくあくまで「早くから共に選抜メンバーとして活動した同期の1人」として見ている……という風に捉えることも可能だ。
(もちろん、同期として特別な存在であることは間違いない)
逆に久保ちゃんは、元から「くぼした」について、そして山下の名前を挙げて語ることがよくあった。
先に言ってしまえば、彼女は趣味的に緻密な言語化をよくする人だし、ラジオという自分の言葉を語る場もあるしで、「そもそも機会が多いだけ」と理解することも出来る。
いやだがしかし、久保ちゃんが「くぼした」として山下のことをどこか特別視していることは、いちファンの実感として強く確信している。同じように感じている人も多かろうし、客観的に否定することは難しいのではないか。
この久保ちゃんの目線が「ベジータ的」であると感じるのだ。
悟空に向けたベジータのそれと全く同じ……という話では当然無いが、2人の関係性に、久保ちゃんがこそ山下に対して強いこだわりを向けているように感じてならない。
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ここからはより一層、根拠の乏しい妄想と思い込みと決めつけが加速していくことをあらかじめ断っておこう。
久保ちゃんの「くぼした」への、そして山下への想いの背景を考えるに、その久保ちゃん特有の「自信のなさ」にあるのではないかと仮説を立てている…もとい妄想している。
2024年現在では冗談めかして言うくらいで随分と和らいでいるが、かつては結構なもんだったなと懐かしんでしまうくらいである。「自分には出来ない」と涙する場面が度々見られ、その「自信のなさ」は久保ちゃんの姿としては印象に強く残っている。
だし、「なんでそんな風に考えてしまうのだろう?」とも思ってしまう。実際にステージ上で披露してくれる歌・ダンス・演技・ウィットに富んだ語り口など、どう見ても並のレベルではないのだから。風に流されるばかりの砂粒の立場からしてみれば、夜空に輝く綺羅星がなぜああまで涙を流すことがあるのか、理解することがどうしても出来なかった。
そこを紐解くのは今回の本旨でないので割愛するとして、とは言えステージに立たざるを得ない状況は、当時の久保ちゃん本人からすれば苦しみの一つであったことは事実だったろう。
そして、自信のなさを支え奮起するための一つの要素として「くぼした」=「山下美月と肩を並べる存在として認識されていること」があったのではないかと思う。
久保ちゃんと同じく山下もまた圧倒的なスターである。ビジュアルはもちろん、当時から見せるストイックさとそれらに裏打ちされた活躍、存在感は、加入して間もない頃から猛烈であった。だし、3期生内でも山下の存在感は認めるところでもあったろう。
そんな山下と度々シンメになり、対となる存在のように扱われる機会が多いことは、久保ちゃんにとっても影響が大きいことが察せられる。
それはそれでプレッシャーでもあるだろうが、でも横並びに配置されることは、「自分もそれくらい凄い人なんだ、そういう存在なんだ」と感じる要素として機能しそうだし、そうでなくても「自分もがんばらなくちゃ」とも思う理由になりそうである。
それこそ今現在でも「山下に刺激を受けて」とか「山下の背中を見て」とかいった発言もちょくちょく見られる気がする。
またしても先ほどの『DRAGON BALL』のコラム、というか太田先生の発言を別部から引用するが、先生は「人間は(他人と)比較すること」について以下のように語る。
自分よりも上(だと思っている)の存在、凄い存在に影響されて、それが自分の実力アップにつながる。
久保ちゃんの「くぼした」への、そして山下への想いの正体としては、そうした初期からの「シンメ」の経験によって熟成されたのではないか。
このコラムは悟空とベジータを取り上げているので「ライバル」という言葉が頻出するが、久保ちゃんの抱く思いもまた、あながち当てはまるのかもしれない。
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そして山下である。
まず彼女が「くぼした」について語る場面は(少なくとも久保ちゃん程は)多くは見られず、そこにどのような想いが潜んでいるのか察しかねるのが正直なところだ。
先に卒業コンサートの内容に触れるとしたら、冒頭で書いたように「くぼした」成分の少なさは気づくところだろう。ファンとして「くぼした」を期待してしまっていた目からすると、意外なくらいであった(あんなに聡明で敏感な山下が気づいてないわけないと思う)。
2人でのパフォーマンスが無かったうえ、Wセンターを務めた楽曲もしかりだ。DAY1の『人は夢を二度見る』、DAY2の『不眠症』はまだしも、3期生曲『未来の答え』さえも実質全体曲に配置したり(メンバー1人ずつが山下と触れ合う演出で最後肩を組んだりしてはいたが)、DAY2で『人は夢を二度見る』が披露した時は山下はトロッコに乗っていたりと、「普通にやっていれば見れたであろう場面」さえ薄められていたようにも思えた。
全てがすべて山下の意図によるものでないにしても、明らかに「少なかった」。
一瞬「山下にとって「くぼした」ってそんなに重要じゃなかったのかな?」とさえ考えてしまうが、いやいや、果たしてそんな単純な話か。
卒業コンサート直前の2024年5月8日に放送された『山下美月のオールナイトニッポン』では、久保ちゃんや「くぼした」について、彼女は以下のように語った(グッジョブY.Kさん)。
ここで発した「頑張り方のベクトルは一緒」という発言は重要であるように思う。そして「背中を向いている」もまた重要である。
ここで、卒業コンサートDAY2での、キャプテン・梅澤美波ちゃんの発言から一部を引用しよう。山下は彼女ともユニットや映像作品などでの共演が多く、3期生の中でも盟友と言える存在であった。
梅は、山下と自分とで「背負うものの種類がちょっと違う」と言う。「頑張り方」ともまた示すところが異なる言葉であるが、梅と山下が見据えていた方向の差異を察するには十分だろう。
「心残り」と零す梅だが、とは言え、すぐ傍でその頑張りをよく見ており、そして深く理解していたこともまた、続ける言葉に表れていた。山下から3期生への愛を語る場面もあったが、背負うものの種類が違うからこその支え合いと労り合いに満ちた関係性と言える。
で、久保ちゃんである。「背中を向けながらも同じベクトルに進む存在」「戦友」であると山下が語ったのは上記の通り。実際のところ、それはむしろ強烈な平行線とでも言おうか、常に並び立つような、よっぽど意識する存在だったのではないか、何なら驚異だったのではないか?と想像してしまう。
久保ちゃんという存在は、自信なさげにしていると思いきや、パフォーマンスから何から、あまりにも卓越しているのだ。落ち込んだり泣いたりする姿に対しても「そんなに出来るのに何を言ってるんだ?」「出来ないとか言ってるのに出来過ぎてるんですけど!」と思ってもおかしくはない能力を、彼女は持っている。
ミュージカル『美少女戦士セーラームーン』でも2人は時を跨いで同じ役を演じたが、本来ならば2018年の時点で山下と久保ちゃんが月野うさぎ/セーラームーン役のWキャストになる予定だった(久保ちゃんの休業によって変更された)、という見立てもある。それが真実かはさておき、同時上演のWキャストと想定したら、より一層「比較される」存在になっていたろうし、実際2019年版の久保ちゃんの評価を鑑みれば、山下からすればそれは恐ろしい事態だったかもしれない。
その実力を近くで目の当たりにすれば、むしろ必然とさえ思えてくる。そういう意味では、山下もまた久保ちゃんに対して「ベジータ的」な想いを抱いていたのかも……と想像してしまうのだ。つまり、2人は「非対称」な目線を互いに向けていたのではないか。
そんな感覚が働いてか、いやいや単なる成り行きか、結果的に「卒業コンサートで「くぼした」をフィーチャーしない」形に収まったのかもしれない。久保ちゃんと2人で並ぶ場面をつい避けてしまうくらいには、やはり意識していた存在だったのではないか。
とはいえ、本人がこう言っていた…というエビデンスはこれっぽっちも用意できないので、やはり妄想と思い込みと決めつけの産物でしかないのだが、その想いの果ての表れのように見えてしまった、卒業コンサートでの一場面がある。
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卒業コンサートでの山下は、楽しい場面ではめちゃくちゃ楽しそうにしていたのはもちろんのこと、本音を真摯に語る場面もあった中、全体的には「晴れやかな表情」を見せてくれていた。
理々杏ちゃんや賀喜遥香ちゃんなど見送る側のメンバーが涙を流し、本人はその姿を温かくも嬉しそうに見つめている……という様子がまま見られた。
そんな中、山下がボロッと涙を流した瞬間を覚えている。
『言霊砲』の間奏中、久保ちゃんが山下へメッセージを送った場面だ。
この言葉を受けた山下は、その前後では見せなかった大粒の涙を溢れさせた。
「くぼした」好きの贔屓目かもしれないが、いやしかしこの瞬間、これまでとは違う反応を見せたように感じたのだ。
受け取った山下の反応だけではなく、この言葉を見るに、久保ちゃんとしてもあの場・あの時でなければ口にしなかったであろうメッセージであるように思う。奇しくも、山下がANNで語った「2歳年下だけど尊敬することもたくさんあるし、かっこいいなと普段から思っている。」との言葉とも共鳴している。
背中合わせの戦友からのこの言葉、紛れもない、究極の賛辞である。強烈な平行線が最後にふっと触れ合ったのだ。ベジータの「がんばれカカロット」をもし悟空が直接聞いていたら、案外同じような反応を見せていたかもしれない。
ベジータのその言葉は「彼自身がこだわりから解放された瞬間」であるとは上で書いたが、ほかならぬ久保ちゃんのこの言葉によって、実は山下も、山下の中の「くぼした」から解放されたのかもしれない。
山下が「背中を向いている」と表現した距離感を、久保ちゃんは最後に「隣」と言った。彼女達を8年先の未来で待ち受けていた〈答え〉がこれであるのならば、あの涙にも頷けるというものだ。
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つまり唯一無二の関係性で最高、ってことなのです。
以上。
明日飲むコーヒーを少し良いやつにしたい。良かったら↓。