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仕事と子育てをする中での気づき

「仕事と子育ての両立」と聞いたとき、頭の中にはどのようなイメージが浮かぶだろうか。「大変そう」「しんどそう」といったネガティブなイメージだろうか?それとも「仕事も子育ても実現するなんて素敵」といった、ポジティブなイメージだろうか?

子供を産む前を思い返してみると、私にとっての仕事と子育ての両立というのはポジティブでもネガティブでもなく、「当然、両立ができるもの」というニュートラルなイメージを抱いていた。「子供を産んだら仕事を辞める」といった価値観はすでに古臭いもののように感じていたし、子供を産んでも働き続けるのが当然というコミュニティの中で生きていた。

しかし、実際に子供ができてからは「仕事と子育ての両立」というワードは私の中でネガティブな意味を孕み始めた。子育てが始まる前の私が「子供を産んでも働き続ける」と考えた時、そこに「仕事を抑える」や「今までと働き方を変える」という選択肢はなかった。しかし、1日24時間という時間は変わらない中で、子育てというタスクが追加されると、今までと同じような仕事のやり方は実質的に不可能だった。

私が仕事のやり方を変えざるを得ず、仕事のモチベーション維持が困難になっていく中、夫は自分の仕事のやり方を変えようとせず、そのことに毎日苛立っていた。子を持つまで仕事中心の生活を送っていた私にとって、仕事の時間を奪う子供と、育児を平等に分担しようとしない夫は、私の人生の足枷であるかのようにも思えた。

この時の私の背後にあった考えは「子供を持っても、仕事で十分に成果をあげたい」という思いだった。子供を持ったからといって、気を使われたくない。「使えなくなった」というレッテルも貼られたくない。会社の制度に乗っかって何年も育休をとっている女性と同じに見られたくない。
当時は必死すぎて、このような自分を客観視することもできなかったが、出産前の「男並み」に働けていた自分をロールモデルとして、一人苦しんでいたように思う。

しかし、子供と多くの時間を過ごしていく中で、徐々に考え方が変化してきた。生まれてすぐは、定期的にミルクをあげたり、おむつを替えたり、私が一方的に何かをしてあげる対象のように感じられていた子供が、いつの間にか言葉を覚え、自分の意思で何かを成そうとし、時に私を気遣う様を見せる。その成長を目の当たりにする中で、自分が仕事の中で実現しようとしていることがだんだんと相対化されていった。

気持ちに余裕が生まれると、子育ても楽しくなった。私の仕事の時間を奪う存在のように見えた子供。しかし、子供と過ごす今ここの瞬間を楽しむようになると、そこから学べることは仕事以上に大きいと気づく。仕事では四半期ごとという短い時間軸の中で、目標を設定し達成していくことが求められる。それはそれで正しさもあるけれど、子供が教えてくれるのは、もっともっと長い軸での人間への信頼のようなものだ。

子供が今より小さかった時、私はおそらく良い母親ではなかったと思う。決まった時間に保育園に迎えに行かなければならないことを恨み、夜泣きする子にイライラを募らせていた。しかし、それでも子供は強く、優しく成長している。もうあと10年後には私の背丈を超え、この家からも巣立っていくのだろう。人というのは、このように力強く成長してきたのだなと、子供を通して学んでいる。

日本は少子化が進んでいて、それはある意味で当然だと思う。女性でも学ぶことができ、子供を生み育てることが選択肢の一つとなったことは、ある意味で喜ぶべき状況だ。少なくとも、勉強する・家の外で仕事をするという選択肢自体がなかった時代に比べると、明らかな進歩である。しかし、身の回りから子供が消えることや、子供の成長を見守る余裕がないほど仕事に明け暮れることが日本をよりよくしていくというイメージは持てない。子供が身近にいることで、次の世代への責任がより強く意識されるし、子供にとって恥ずかしくない親でありたいという思いが、自分を成長させる。

最初の問いに戻ろう。「仕事と子育ての両立」と聞いた時、頭に思い浮かぶものは何か。それは、これまでの女性たちが勝ち取った選択肢である。仕事を通した社会貢献と、子育ての喜びの両方を得ようとする欲深い試みである。その欲深さゆえに悩みは尽きないが、それでも諦めずに誇りを持って生きていきたいと思う。


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