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子育てについて考える

子供が小学校に入り、周りでも塾に行き始める子が増えてきた。このあたりでは、クラスの半分くらいが私立の中学校を受験するらしい。近所でも、日能研マークのリュックサックを背負った子供たちをちらほら見かける。

職場でも、子供の勉強について興味津々の親たちが多い。「評判のいい塾はどこ?」「○○インターナショナルスクールに行っている子はいますか?」といった話題が、社内の親コミュニティでは飛び交っている。

「子供を少しでもいい学校に行かせたい。」この思いの背景に、「子供には幸せになって欲しいから」という親心があることは疑いはないだろう。これからを生きる子供たちに必要であると言われるような「非認知能力」「英語力」などを向上させるカリキュラムは、子を思う親たちの関心を得ているに違いない。実際に私も、子供が小さい頃には英会話スクール等にも通わせていた一人だ。

ただ、最近はこの「うちの子になるべく良い教育環境を」という考え方が、実は最良の選択肢、というわけではないのだろうと思っている。「うちの子に最良の教育を」ではなく、「全ての子になるべく良い教育を」の方が何倍も大事なのではないか、と思うのだ。

自分の子が良質な教育を受け、期待通りとても優秀な大人になった時に、周りの同じ年ごろの人々が貧しく、不健康で、今よりも争いの絶えない世の中になっていたとしたらどうだろう。優秀になった我が子は、きっとその時に言うだろう。「このような世の中になるのをあなたはただ見ていたの?何もしなかったの?」と。

15年後の私は「私はあなたにいい教育を受けさせるために必死に働いたのだ。世の中が貧しくなる中、給料の良い会社に勤められるよう努力をしたのだ」と言い訳をするだろう。だけど、本当に優秀な子ならばそんな言い訳に納得はしないだろう。「自分だけ、自分の家族だけが裕福であればいいという、その視野の狭さがこの世の中の貧しさを引き起こした一つの要因ではないだろうか?」と言い返されるかもしれない。そのとき、私に言えることはなんだろうか?

幸せ=お金と考えられる時代は終わった。子供の幸せを考えるということは、どんな世の中を作っていきたいかを考えることと繋がっていく。「うちの子にはいい教育を受けさせて、いい学校に言ってほしい」という近視眼的な希望だけではなく、どんな世の中を作りたいか、というもう少し俯瞰した視点で行動を起こしていくことが同時に必要だろう。そう考えると、自分の子の教育だけでなく、全ての子供の教育を考え行動していかなければいけないだろう。

子育てとは親育て、とはよく言ったものだ。子供がいなければ、私は今でも自分の成長しか考えられなかったかもしれない。子供が産まれて、世の中をよくしていく責任を感じるようになった。なるべく多くの大人が、このような視点をもつことができれば、「自分だけよければいい」「自分が稼げればいい」といった考えは駆逐されると信じている。(私は子供ができるまで気づけなかったけれど、子供の有無にかかわらず、だ。)


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