『ドグラ・マグラ』で読書感想文書こうと思ったら何か違うシロモノが出来上がった

こんばんは。何でこんなこと思い立ったのか皆目見当もつかない渡海です。

・・・いや、やっぱ頭おかしいんだと思うよ。何をウキウキで書いてんだろうって、そりゃ思いますよ。

というわけでタイトル通り、「何か違うシロモノ」に着地こそしましたが、福岡が誇る作家の一人でもある夢野久作さんの遺作『ドグラ・マグラ』の感想文を書いてみました。

どうせなんで放流しちゃいます。お目汚し失礼。



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狂妄の進化論 『ドグラ・マグラ』を読んで
 橋本優希

 「私は正常か、異常か?」
 このような自問で答えに詰まるのは、本作を読み終えたその時が初めてだった。

 まず初めに、本作『ドグラ・マグラ』について回る不吉なジンクスを、前提条件として確認しておこう。曰く、「本書を読破した者は、必ず一度精神に異常を来す」とのこと。
 私もまた、決してそれを真っ向から否定はしない。作者である夢野久作は『少女地獄』などでしばしば取り入れていた書簡体形式を本作でも採用している。しかし、こと本作において、その書簡体形式が私を含めた読者の脳内に多大な混乱をもたらす上で最も大きな要因となったことは疑うべくもない。

 私は本作をPCの青空文庫で拝読したが、いくら画面をスクロールさせども、物語そのものに明確な進展は見受けられず、記憶喪失の若き精神病患者である主人公「私」と彼の関わったと思しきいくつかの事件が複雑怪奇極まりない形で提起・展開されていく。
 一定の進捗があったように見えたところで前提の変化や、突拍子もない論文パートなどが挟まることで、読者の意識は一旦のリセットを余儀なくされる。振り出しに戻されるという形での進展はエラリー・クイーンの作品などでも見られる、いわば「消去法ミステリー」的構造ではあるが、それらと本作の違いは、消去法に則って消されていく選択肢の数がそもそも一定であるかどうかだと私は考えている。
 つまり、一見「これ以外に可能性はない」と思えた可能性が否定され、新たな可能性が急浮上するのだ。それは進展があったというよりも、むしろ、その瞬間に至るまでの過程が完全な徒労だったという印象を私に強く植え付けてきた。

今でいうループ物にも近いが、入れ子のようにもなったこの構造も含めて、本作には『回帰』というコンセプトが随所に感じ取れる。
 たとえば、胎児が夢の中に数十億年の万有進化を見ることで、ヒトの形を得るまでに様々な生物の姿を辿っていくという論文『胎児の夢』が、本作におけるキーになっている。
 加えて、『ドグラ・マグラ』は作中、バテレンの呪術を指す長崎の方言であるとされたり、「堂廻(どうめぐ)り、目眩(めぐら)み」が訛ったものであるとされたりする。『胎児の夢』や、あるいは『ドグラ・マグラ』の語源も含め、本作は『回帰』という構造に対して非常に貪欲かつ偏執に近いスタンスを取っているのだ。


 中でも『胎児の夢』は作者が百科事典から聞きかじった、有り体に言えば付け焼き刃の知識で書かれたものとしては極めて論理的に成立しており、いちマクガフィンには収まらぬ重大な要素たり得ている。
 そもそもこれは、かのエルンスト・ヘッケルが提唱した反復説に基づいた本作独自の理論だが、これが本作にある異常な物ものらを異常たらしめている根幹であるとも言える。
 既に著作権の切れた作品なので、ネタバレに繋がりかねない発言をさせていただくのをご容赦願いたいが、作中で正木敬之博士が提唱するこの説、どのような解釈を行なっても主人公の立たされた境遇を恐ろしいものにしてしまうのである。
 この論文が真実であれば、主人公の「私」が関与していると思われる事件は想像を遥か超えておぞましい真実を孕んでいることになる。どころか「私」や「私」の出会った若林博士(顔が長い上に体が縮んだりする)も、実は常軌を逸した人間であることになってしまう。
 この説は本来立証不可能だが、それが真実であると仮定すれば、作中で起こる多くの怪事件に説明がつくようになる。しかしそれを認めるのならば、その怪事件群の実行犯は他でもない「私」となる。
 もしくは、何者かがその理論に基づいた悪意ある計画で「私」を陥れようとしているのかもしれない上に、そもそも『胎児の夢』が真実であるという確証はない(先述したように『胎児の夢』は立証不可能の説である)。
 虚実綯い交ぜになったような混沌とした構成でありながら、その中の要素をどう拾いあげて繋げても、希望ある真相が見えてくることは決してない。結果「私」は、自らの立たされた現在の境遇さえ『胎児の夢』、数十億年の万有進化の大悪夢の中の出来事であると感じるようになっていく。
 ここから始まる、畳み掛けるようなクライマックスへの展開で私は、その異質な雰囲気にカモフラージュされていたはずの王道探偵小説的カタルシスを得た。だが、そのカタルシスの根拠さえ、本当に起こった事実であるかは不確かだ。雲を掴むようなものであり、それはある種、私までもが見ていた大悪夢である。

 さて、多くのコピーやレビューで怪奇色が強いと言われ続けてきた本作ではあるが、この作品の奇怪さを後押ししているのは、主な舞台である九州帝国大学(現在での九州大学である)医学部の精神病棟に漂う空気感を描き出す、夢野の見事な筆致であろう。
 本作はそもそも昭和一〇年に刊行されたものであり、昭和初期の雰囲気は本作のそこかしこに見て取れる。精神病棟を「一度入れば出られぬ地獄」のように表現するのは、精神病院が「キチガイ病院」などと、現代社会においてはおおよそ声に出すのも憚られる通称で呼び習わされていた時代ならではの表現であるように私は思う。そして、その空気感の演出を後押しするように、夢野は本作で難解さや迂遠さを押し出した文面で物語を綴る。昭和から平成を通り越し、今や令和まで元号の改まった今の日本人には、本作で夢野が用いた文章のリズムは、ややずれて感じられるかもしれない。だがその異質感こそが、薄暗く湿った空気、そして、異常者が異常な状況に放り込まれるという、いわば極大の異状の雰囲気を演出している。ひとつの台詞が矢鱈と長いところも、一般的な小説の文章構成のセオリーから逸脱しているように見える。

 本作は探偵小説と標榜してはいるが、一読しただけではこの物語が真に解決にたどり着けたかを判別することは不可能である。
 その文章の構成と内容の難解さゆえ、本作は読んでいく際に果てしなさや徒労感をおぼえてしまう。その印象は私にやがて、「これを読み進めた先に、本当に結末が待っているのか」という予感めいた疑惑を抱かせた。その上、それは決して杞憂では終わらない。私は読破後しばらく、自分がこの作品に費やした時間の意味について考えてしまった。

そして私が疲弊した脳で導き出した結論は、そも『ドグラ・マグラ』は、むしろその異常さを求めて読む作品であり、本作を読むにあたって、自身の精神は正常なままに読み進めようという姿勢で臨むのは大きな誤謬であるというものだった。『ドグラ・マグラ』の持つ異常性を楽しむためには、自身の異常性と向き合うことでもって作品の世界に没入することがある意味必要になるのだと。

こうした側面から、「本作を読破した者は精神に異常をきたす」というジンクスは、頭ごなしに否定できる物ではないのだと感じた。だが、強いて言えることがあるならば、我々はむしろこれを読んでいる最中にこそ、自らの精神に常軌を逸させるべきであろうということだ。
 けだし、これはただ優れているだけの作品というわけでは、決してない。食べ物で喩えるならば珍味、言い方を選ばないのであればゲテモノである。普通の食事とは違う心構えで以って臨み食さねばならず、それはやはり食事とは違う、ある種怖いもの見たさを刺激する類の体験である。

 時に、これを読んでいるあなたは正常か、異常か?

 もしも、あなたがこの問いに自信を持って答えられないのであれば、是非ともこの作品を一読してみるのをお薦めする。きっと自身の精神を測る上で役に立つはずだ。
 しかし気をつけてほしい。この作品は正常と異常を測るリトマス紙でありながらも、それらを決して切り離しはせず、むしろ積極的に混在させる魔力を持つ。
 そしてその魔力に捕らえられてしまったのならば、あなたも数十億年に亘る終わりなき大悪夢に取り込まれる。直感に反する言葉ではあるが「理知的かつ頭の冴えた異常者」になって、茫漠たる夢の中で躍り続けることになるだろう。

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