膝を引くようになった(横田アカリに対する一考)

横田アカリという人物に関して、僕は一定の興味みたいなものを常に抱き続けていた。彼女は新入社員として、春のひんやりと爽やかな風と共に会社にやって来て、暗澹とした寒さの続く2月に去っていった。そこだけ見れば、特に珍しくもない。新入社員が希望を持って入社し、絶望と共に退職するのは、どこの会社でも3年に1度はあることだ。
僕達の職場は、爽やかな風とは真逆の、薄暗く湿った雰囲気だった。仕事も終日事務処理で、右から来た仕事を的確に左に投げることができれば、誰でもうまく回していくことができた。つまらない仕事と言ってしまえばそれまでだった。

僕は彼女の教育係を任されていた。しかし、僕たちの仕事内容はマニュアル通りに仕事をこなすこと以外に何も求められない。教育係なんていらないのだ。小さな会社では、時々こんな非効率(不具合と言ってもいい)が起こってしまう。しかしながら、僕は不満を口にしたことはない。流れて来た物事を右から左に処理していく。僕のやることは変わらない。

「ナカタさん、この仕事楽しいですか?」横田アカリはそう言った。こぢんまりとした中華料理屋だったのを覚えている。僕たちの他に、客は主婦ばかりだ。彼女らの当てもない話(ほとんどは卵の値段と子供のスイミングスクールの話だ)に聞き耳を立てながら、麻婆茄子を口に運んでいる最中だった。

「仕事に楽しさって必要かな?」僕はそう言ってナスを頬張った。

「私もそういう考えですけど。もしナカタさんが楽しいと思ってるなら、興味があるなと思って」彼女はそう言ってエビチリを口の中に入れた。

「楽しくはないね。ただまあ、つまらなくもない」これは事実だった。楽しさを見出すこともできなければ、つまらなさを見出すこともできない。本当にどうでもいい仕事というのは、そういうものだ。

「そうですね。私もそう思ってました。中学生の時、英語の単語や意味のない文字列をひたすら覚えるのが好きでした。私、誰よりも円周率を覚えていて、20003桁まで暗記してたんです。テレビに出たこともあるんですよ」

「そんな特技があったんだ」僕は彼女が画面の中で円周率をひたすら読み上げる姿を想像しようと思ったが、意味がないと思って途中でやめた。

「私はつまらないことを黙々とやる才能があるんだと思っていました。でも、やっぱり心がすり減ってるのかなって思うんです」

「どうして?」

「私、電車で通路側の席に座っているとき、必ず窓側の席の人が出ようとしたら席を立ってたんです」

「はあ」僕は意味がよくわからなかった。

「ナカタさんはどうしますか?席を立ちますか?」

「どうだろう。席は立たないかな。膝を引くくらいはすると思うけど」

「でも、膝を引いたって大した隙間ってできないじゃないですか。それって親切じゃなくて、親切に見せかけた何かでしょ?私はわざわざ膝を引いてるから、悪くないよって意味だと思うんです」

「それと君の心がすり減ってるのとに関係があるの?」

「私、最近膝を引くようになったんですよ」

「心の余裕が無くなっていると?」

「はい。時々そういうのがあるんです。物事の本質を外れたことをしてしまう」

話はそこで終わった。僕は彼女の言葉を受け止めることはしなかったし、おそらく彼女もそれを望んでいない。的確なアドバイスを与えるには日が浅すぎた。何を言っても彼女にとってマイナスにしかならないだろう。彼女もそれをわかってくれたようだ。
すみません、へんな話をしてしまって。彼女はそれだけ言って、食事に戻った。

横田が会社を去る前日、僕と彼女はビジネスホテルにいた。頭が痛くてたまらなかった。彼女は僕のみぞおちのあたりにキスをした。
ここに至るまでの経緯を述べたとしても、恐らく意味不明な文字列になるだけだろう。原因と結果を正しく並べていったとしても、理解に繋がらないことだって存在する。
とにかく僕は横田アカリと寝た。僕は彼女の内にある神秘性みたいなものに興味を持っていた。何者かよくわからない。その感覚に、僕は無限の奥行きを感じたのだ。こう言うと、僕が彼女に絶大な興味や好意を寄せているように思われるかもしれないけれど、別にそう言うわけではない。僕が彼女に持つ好意や興味は、一定であり続けた。俗的な言葉にするなら、ただ不安だったのかもしれない。とてつもなく大きな部屋に突然放り込まれたような、不安。

彼女が去って2ヶ月、社長が僕を飲みに誘った。社長はかなり酔っ払っていて、ここだけの話、と言って横田アカリと不倫関係にあったことをペラペラと話した。横田アカリが退職したのは、俺のせいなんだと彼は苦笑した。
僕は社長の言葉に引っ掛かりを覚えた。自責の念は自意識と表裏一体だ。彼はそれに気づいていない。だから社長をやれているのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は新橋から京浜東北線に乗り込んだ。気づいたら僕は寝ていて、左隣に金髪の女が同じように寝ていた。横田アカリだ。

僕の知る限り、彼女はまっすぐな艶のある黒髪だった。一体この数ヶ月の間、なにがあったのか。僕は声をかけそうになった。
僕は社長との話を思い出した。社長が話している彼女の性格や行動は、僕が認識している彼女とは少しずれていた。大まかなところは横田アカリだが、時々ノイズのようなものが入る。例えばマーベル映画を観に行ったり、キレやすい性格だったり。単に僕に見せなかった一面と言ってしまえばそれまでだ。しかし、ここまで器用にそれをやる人間であるようには思わなかった。僕は彼女の言葉の端々に、少しだけガサツな部分を認めていたからだ。

一体どれが本当の彼女なのだろう。いや、どれも本当の横田アカリであったのかもしれない。人間とは、一本の線で必ずしも著すことができるとは限らない。
電車は蒲田駅で停車した。僕は立ち上がって、彼女の前を通り過ぎようとする。彼女は膝を引いた。

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