「不思議の国のアリス」とその続編「鏡の国のアリス」は普及の名作として世界中の言語に翻訳されて読み継がれてきた児童文学の古典中の古典ですが、作者ルイス・キャロルにはもう一つの隠れた大傑作があります。
「鏡の国のアリス」の中のノンセンス詩「ジャバウォックの歌」に勝るとも劣らぬ、長大な「The Hunting of the Snark 」と題された物語詩です。
スナークとは? 物語詩の題名はしばしば「スナーク狩り」と日本語に訳されますが、実はスナークとは何であるのか、分からないので、スナークが猛獣のようなものだとすれば、虎狩りのように「スナーク狩り」としてもいいのですが、もしかしたらスナークとは何かの探し物の対象なのかも知れないとも、読みようによっては読めてしまう。
Huntingは
The job hunting 仕事探し The flat hunting アパート探し
みたいな表現で日常的に使われることもあるし、
Head hunting
ヘッドハンティングはカタカナ語になっていますね という風に、ある役割や役職を担う理想的な人物を引き抜くことにも使われることもあります。
こちらから一方的に狩り出したり、探し出すが Hunting。
捜索や探究の意味にも使われます。
でもスナークがなんてあるのか、物語は具体的には語らない。
希少鉱物のような宝物かも知れないし、未知の生物なのかも知れない。
ですので、この詩の題名の日本語訳は難しい。
「スナーク狩り」でも「スナークの捜索」でも「スナークの探究」でも間違いではないでしょう。
でも物語では無人島にスナークなる存在を求めて長い航海の果てにスナークを探し出すので、ここでは意訳して「スナークを求めて」と仮に訳しておきます。
動物だとすれば、人間による希少動物の捕獲ということになり、植民地が大好きな19世紀大英帝国の文化を色濃く反映しているとも言えます。
ジャンル的にはノンセンス詩に類するのですが、ギリシア神話の黄金の羊毛 The golden fleece を求めて英雄イアソン Iāsōn (英語風ではJason ジェイソン) が航海へと向かった、探索船アルゴーArgo の物語のパロディの形態をとっていて、神話を知っていると色々なメタファーを読み取れる奥深い詩です。
金羊毛を求めるアルゴー号のイアソン 子供のために書かれた詩ではありませんが、世界観はやはりアリスのワンダーランドを継承しているかのようにファンタジーなものです。
そして、ジャバウォック同様に、英語詩の中でも広く愛されていて、今でも愛唱されているのです。
言葉を愛したルイス・キャロル 作者ルイス・キャロルは、優れた知能を持ちながらもコミュニケーションなどの社会生活能力に欠如したASDという自閉症を持っていた人物でした。彼もまた極端な興味を自分の好きなものを持ちすぎるというタイプの人間でした。
彼の人生は数学教師になるほどの異常な数学への情熱と、当時には珍しい写真撮影、そして英語詩の世界の中で輝きました。
写真に関しては特に未成年の少女への執着が広く知られていて、生涯にわたって数多くの少女の写真を撮り続けました。
「不思議の国のアリス」の物語の少女のモデルになった、アリス・リデルもまたそうしたモデルだった少女の一人。
左からアリス、イラ、ハリーにエディスの兄妹たち。 ルイス・キャロルによる撮影。 1860年頃。 勤務していたオックスフォード大学附属高校の数学科の上司の家族と仲良くなり、その上司の三人の娘のうちの二人目がアリスでした。
数年間の家族ぐるみの交際ののち、やがてルイス・キャロルはリドル家と関係を断つのですが、その原因はルイスが幼い13歳のアリスに対して求婚したらしいからだとか。世間をはばかったがためか、手紙などにも真相は語られないのですが、おそらくそういう人に語れぬ事情があったようです。
現在でも日本では女性は16歳で結婚が可能。つまり一般的には義務教育の中学校を卒業した頃の年頃。
このたび18歳に引き上げられるようですが、世界を見回すと15歳や14歳でも親の同意があれば結婚は可能という国や州が、現在においても先進国の中にもいくつも存在します。
19世紀ヴィクトリア・イングランドでは13歳は法律的には結婚適齢年齢だったのです。
成熟した女性と話をすることが苦手だったルイスは子供たちとならば普通に会話できた人だったので、物語を2冊も書いて献呈した相手である小さなアリスは理想のパートナーだったのかもしれません。
いずれにせよ、ルイスは諸事情によりアリスとの関係を断たれてしまいますが、生涯にわたって幾多の幼い友達 (男の子とも) を持ち続けて、彼らが成人したのちにも、元子供たちはチャールズ(作者の本名はチャールズ・ドジソン)おじさんとの友好を楽しんだのだとか。アリスの場合は振られてしまった珍しい例なのかも。
子供の頃に可愛がった子供たちが大きくなってからも友人として手紙を交わしていたことが残された手紙から知られています。
だから純粋に小さな人たちと友好を楽しんで、子供たちの方も彼との関係を不快に思うどころか、楽しみ続けて時には懐かしんでいたのです。
もちろん現代でいうところの小児愛者だったという可能性もありますが(少女の裸の写真も撮影していました)、自閉症な人はいちがいに性的嗜好に関係なく、子供に好かれるし、子供と一緒にいることを楽しみます。
子供にやたら好かれる自閉症気味な人が多いのは、子供を自分と対等な人として接することができるからです。
自閉症な人はしばしば子供のような心を永遠に持ち続ける人だとも言われます。良い意味にも悪い意味にも。子供のような純真さと子供のような我が儘さと子供っぽさと。
さて、子供だった頃の少年少女と親しくなったルイス・キャロルは、長じて大人になった彼らに、彼の詩の中の造語の意味を特別に手紙のなかで解説したりしています。
言葉遊びを語ることが大好きだった彼らしい手紙はなかなか読み応えがあります。やはり子供っぽい人なのです。
彼らとの手紙のおかげで、Chortle とかSlithyとかMome などの作者による造語の作者が想定した意味がわかるのですのは貴重。
いずれにせよ、ルイスキャロルは言葉が数字と同じくらいに大好きな筋金入りの英語オタク。
こんなにも英語の造語に情熱を注いだ人物はおそらく、17世紀の英文学史上最大の詩人とされるウィリアム・シェイクスピア、そして20世紀アイルランドのジェームズ・ジョイス以外にはいないのでは。
おそらくこの三人が英文学史上最大のLogophile またはLexiphile と呼ばれる、言葉オタクでしょう。
LOGOは言葉という意味、LEXIは語彙という意味で、PHILEは愛する。合成すると言葉の愛好家という意味になります。管弦楽団のPhilharmonyは、ハーモニーを愛する人たちという意味が原義です。
わたしも同類だなあと、実名で投稿することにあまり意味がないと感じ始めたころだったので、Noteのペンネームを「Logophile」に改めたほど(笑)。
さて、そんなルイスが「鏡の国のアリス」出版の数年後に発表したのが、スナークを求める物語詩でした。
スナークという得体の知れないもの さて物語詩ですが、一番最初の題名のスナークというのが何のことだかわかりません。
Snarkは、蛇 Snakeと鮫 Sharkを引っ付けて考えだされたらしい造語です。だとすれば、スナークはやはり動物?
宝探しに出かけるようにして船に乗り込む船員たちはスナークが何なのか知っているのかもしれませんが、スナークは大変に貴重なもので一攫千金の対象であるスナークが何であるのかは最後の最後まで語られません。
スナークとは? Vanish away 消えてなくなるという意味深い言葉 映像付き詩の朗読 2023年、最新映像技術によって新作のスナーク狩りのテレビ映画が製作されています。海外版のAMAZONプライムなら見れるようです。
トレイラーを見る限り、スナークという不思議な存在の何かを探す旅という映画で、19世紀後半の衣装や蒸気船など、あくまで時代考証に忠実なリアリズムを楽しめそうな映像です。
妖精らしいミステリアスな女性が島を飛びまわっているのが印象的です。彼女がスナークなのでしょうか。
詩の解説 第一の詩 Fit the First: The Landing (上陸) "Just the place for a Snark!" the Bellman cried, 「スナークの土地だ!」 As he landed his crew with care; 注意深く、乗組員を下船させるように Supporting each man on the top of the tide 波の上で互いを支え合い By a finger entwined in his hair. 指を髪に絡ませながら、伝令は叫んだ "Just the place for a Snark! I have said it twice: 「スナークの土地だ!二回言ったぞ: That alone should encourage the crew. 一度でも乗組員を激励するに十分 Just the place for a Snark! I have said it thrice: スナークの土地だ!三度も言ったぞ What I tell you three times is true." 三回も口にしたことは本当だぞ」
A Snarkなのでスナークはただ一つだけの存在でないことが分かります 長大な物語の始まりは、目的地に着いたぞという、掛け声から始まります。
でも物語はここから船員たちがどんな人物たちなのかを説明してゆきます。
最初に登場して「着いたぞ」皆に告げるのは伝令。
Bellmanとはベルを鳴らす人のことですが、昔はベルを鳴らしながら、政府のお触れなどを伝える役割をする人のことでした。
現代のホテルのボーイとは違います。
17世紀ロンドンの、つまりシェイクスピアが生きていた時代のベルマン この頃のベルマンは本当にニュースを伝える伝令係でした こんな彼が船長で冒険の先導役なのですが、実際の航海に果たしてベル振りがどれほど役立つことやら。
それではまずは第一部の続きを読んで見ましょう。
順番に登場人物が紹介されてゆきます。
The crew was complete: it included a Boots— 乗組員はそろった: A maker of Bonnets and Hoods— 帽子や頭巾作りに靴磨き A Barrister, brought to arrange their disputes— 訴訟があればなんとかする法律家も And a Broker, to value their goods. 宝物を鑑定する仲買人も A Billiard-marker, whose skill was immense, スキルの幅広さの知れぬ Might perhaps have won more than his share— 勝ちすぎてしまうビリヤードの名手(審判係)に But a Banker, engaged at enormous expense, 高額で雇った銀行家は Had the whole of their cash in his care. 全ての現金を抱え込んでいるが There was also a Beaver, that paced on the deck, ビーバーはデッキの上をゆっくりと歩き回るか Or would sit making lace in the bow: 舳先に座ってレースを編んでいる And had often (the Bellman said) saved them from wreck, そしてよく(伝令が言ったように)難破から船員たちを救ったのだ Though none of the sailors knew how. 船員の誰もどうやったのか知らないかったのだけれども
リズムのいい詩句ですねここからある奇妙な人物の紹介。
There was one who was famed for the number of things いろんなことにおいてよく知られた人物が一人いた He forgot when he entered the ship: いつ乗船したのか忘れていたが His umbrella, his watch, all his jewels ate nd rings, 傘に腕時計、宝石に指輪 And the clothes he had bought for the trip. そして旅行のために服をたくさん買ったのだ He had forty-two boxes, all carefully packed, 42箱に全部注意深く詰め込んだ With his name painted clearly on each: どの箱にも名前をはっきりと書いておいた But, since he omitted to mention the fact, でも大事な事実を付け加えるのを省いてしまっていた They were all left behind on the beach. というのも浜辺にすべてを置き忘れてい待ったことだ The loss of his clothes hardly mattered, because 服を失ったことは大した問題ではなかった、だって He had seven coats on when he came, 乗船したときに七枚もコートを羽織っていたからだ With three pair of boots—but the worst of it was, ブーツを三足、でも最悪だったのは He had wholly forgotten his name. 全く自分の名前を彼が忘れてしまっていたことだ He would answer to "Hi!" or to any loud cry, 「やあ」だとか、 Such as "Fry me!" or "Fritter my wig!" 「俺を焼いてくれ」とか「かつらをから揚げにしてくれ」 To "What-you-may-call-um!" or "What-was-his-name!"「なんで名前だ」「な・ん・て・名・だ」とかの叫び声には彼は答えた But especially "Thing-um-a-jig!" でも特に「名無しの権平」なんて呼びかけには。
While, for those who preferred a more forcible word, 一方、もっと力のこもった言葉を好む人たちには He had different names from these: 次のような異なる名前が使われた His intimate friends called him "Candle-ends," 仲の良い友達からは「蝋燭の燃えさし」 And his enemies "Toasted-cheese. そして彼を嫌う連中からは「とろけたチーズ」と呼ばれた
"His form is ungainly—his intellect small—" 「あいつの姿は不恰好、知能も小さいし」 (So the Bellman would often remark) そう伝令はよく言うのだった "But his courage is perfect! And that, after all, 「でも勇気は完璧だ!そして何よりも Is the thing that one needs with a Snark." それはスナークを求めるに必要なことだ」
He would joke with hænas, returning their stare 彼は頭を大袈裟に With an impudent wag of the head: 一振りして睨み返すようにハイエナと冗談を言うのだった And he once went a walk, paw-in-paw, with a bear, そうしてクマのように手のひらで歩いて見せて "Just to keep up its spirits," he said. 「その意気で踏ん張っていけ」と言うのだった
hænasが何であるのか意味不明(後記: Hyeanas つまりハイエナだと判明しました) わたしの使ったテキストによる誤植だと思われます He came as a Baker: but owned, when too late— 彼はパン屋としてやってきた、でも遅すぎたと認めた And it drove the poor Bellman half-mad— そしてそのことは憐れな伝令を半狂乱にした He could only bake Bride-cake—for which, I may state, 彼にはウェディングケーキだけ焼くことができて、 No materials were to be had. 材料はここにはないのだと語ったのだ
ここで記憶喪失らしいパン屋の話が終わり、最後の一人の肉屋が紹介されます。
The last of the crew needs especial remark, 乗組員の最後の一人には特別な説明が必要だ Though he looked an incredible dunce: 彼はとんでもないバカに見えたのだけれども He had just one idea—but, that one being "Snark," 彼にはある一つの考えを持っていたのだ、それは「スナーク」であるということだったので The good Bellman engaged him at once. 人の良い伝令は即座に彼を雇ったのだ
He came as a Butcher: but gravely declared, 彼は肉屋としてやってきた、でも重々しく言い放った When the ship had been sailing a week, 船が一週間航海していた頃 He could only kill Beavers. The Bellman looked scared, 自分にできるのはビーバーを退治することだけだと。伝令は怯んだように見えて And was almost too frightened to speak: そしてほとんど怖くなりすぎて何も話せなかった
But at length he explained, in a tremulous tone, でも長々と震えた声で説明してみた There was only one Beaver on board; 船にはビーバーは一匹しかいない And that was a tame one he had of his own, よく飼いならされていて躾けられている Whose death would be deeply deplored. そんなビーバーの死は悲しくてたまらないよ
The Beaver, who happened to hear the remark, たまたまこの言葉を聞いていた乗船していたビーバーは Protested, with tears in its eyes, 目に涙を溜めながら抗議した That not even the rapture of hunting the Snark たとえスナーク探索の喜びさえも Could atone for that dismal surprise! この惨めたらしい驚きの償いにもなりはしないと
It strongly advised that the Butcher should be ビーバーは別の船に置いて連れてゆかれるべきだと Conveyed in a separate ship: 強く勧められた But the Bellman declared that would never agree でも伝令はそれには同意できないと告げた With the plans he had made for the trip: この探索の計画は立てられてしまっていたからだ
Navigation was always a difficult art, 航海というものはいつだって難しい芸だ Though with only one ship and one bell: 一隻の船と一つのベルしかないとしても And he feared he must really decline, for his part, だからもう一隻用意するなんて Undertaking another as well. と自分の役割を考えて、この嘆願を認めることをとても恐れたのだ
The Beaver's best course was, no doubt, to procure ビーバーができる一番良いことは、疑いなく、 A second-hand dagger-proof coat—中古の短刀を突き通さないコートを調達することだった So the Baker advised it—and next, to insure だからパン屋は、次に命に遺言の覚書を書いて Its life in some Office of note: 命に保険をかけておくべきだとアドバイスしたのだった
This the Banker suggested, and offered for hire このパン屋の提案は (On moderate terms), or for sale, 賃貸用のためのもので、乗り気ではなかったが、売り家のためにも Two excellent Policies, one Against Fire, 二つの素晴らしい保険、火災保険と And one Against Damage From Hail. 雹の被害のための保険を勧めたのだった
Yet still, ever after that sorrowful day, だからその悲しみに溢れた日以降は Whenever the Butcher was by, ビーバーがいつだってそばにいる時には The Beaver kept looking the opposite way, ビーバーは反対側をいつも見ていて And appeared unaccountably shy. 不可解なほどにシャイに思えるのでした
ここで第一部が終わり。
映画の中のベルマン=船長である伝令 何とも航海にはどうでもいいことばかりが語られていますが、そういうノンセンスがルイス・キャロルらしさ。
この後も船に乗り込んだ人たちの顛末が第四部まで長々と語られてゆきますが、そんな癖ある人たちがスナークという「何か」を探しているという物語なのです。
英詩として巧妙に踏まれた韻の面白さと選び抜かれた単語たちのリズムの良さがこの詩の面白さですが、奇想天外な結末もまた、謎めいていて、読後に独特の余韻を漂わせるのです。
自前のダムを作ることで知られるビーバー(ビーヴァー) 北アメリカ種と北や東ヨーロッパの一部に生息するユーラシア種が知られていますが、 ルイスキャロルのイギリスには住んではいないので、 「アリス」のドードー同様に 見たことのない動物として登場させたのでしょうね 第二部以降はまた次回。お楽しみに。