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ピアノのバッハ(番外編3):世界で唯一のディヌ・リパッティの映像

今では伝説となった夭折したディヌ・リパッティというルーマニアのピアニストについて、わたしはたくさんの言葉をNoteに書き綴ってきました。

リパッティという不世出の演奏家の知名度を高めることに、少しばかりでも貢献できるかもしれないということ、独りよがりなものでも、自分にはとても嬉しいことですね。 

リパッティが今日においてもクラシック音楽愛好家の間でよく知られているのは、死期を悟り始めた彼が、迫りくる死を意識していた中で録音活動にいそしんでくれたおかげです。

当時としては大変に過密スケジュールで行われた最後の数年のスタジオ録音は、まさに人類の遺産。

同時期に演奏活動を行っていた親しかった同僚たち、例えばクララ・ハスキルやアントニオ・ヤニグロなどには、リパッティの死去以前の録音はほとんどありません(彼らの名前が広く世に知られるようになるのは1950年代、つまりリパッティ死後のことです)。

リパッティがどれほどに特別な存在だったかが理解されます。

映像の残されていないリパッティ

リパッティの「高貴な」演奏の秘密を探るための資料としては、録音の他には彼を語った数多くの同僚たちの言葉と、彼が描き残した手紙の言葉などが貴重です。

あまりにも残念なのは、リパッティが出版しようと計画していた演奏論が未完成の断片としてしか書き残されなかったことなのですが、リパッティはどんなに忙しい時でも、必ず毎日手紙を書くための時間を作って親しい友人や家族たちに彼の誠実で謙虚な人格を伝える言葉を書き残してくれました。

「文は人なり」

という言葉がありますが、リパッティの場合にも当てはまります。

どんな曲を演奏しても、決して大言壮語しない(大袈裟な表現は慎む)彼の演奏から感じられる、謙虚で誠実な人柄は、リパッティの言葉の中からも読み取れるのです。

それにもかかわらず、リパッティが演奏に関して遺した言葉はあまりにも少なすぎるのです。

それならば動作において何か読み取れないかというと、20世紀半ばまで生きた人なのに、全く映像が残されていないのは痛恨の極み。

やはりどんな姿の人だったのか、動く姿を見てみたかった。

伝説の指揮者たち、フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、アルトゥーロ・トスカニーニ、ハンス・クナッパーツブッシュなどには動画が多数現存していて、リパッティよりも古い世代の19世紀生まれの彼らの方が我々により親しいという大いなる矛盾。

リパッティの生前の姿を伝える動画が伝えられはいないことは、あまりにも残念なことです。

1947年のルツェルン音楽祭にて

しかしながら、根気よく資料館などを探してみると、ほとんど廃棄処分扱いだったような古いテープなどから、過去の思いもかけない動画などが発掘されることがたびたび起きています。

20世紀の終わりの頃より、社会主義共産圏の崩壊によって、東側諸国の古い図書館が西側に解放されて、音楽的な大発見も相次ぎました。

知られざるバッハのカンタータ自筆譜(BWV 1128と新番号が与えられました)の発見なども画期的なものでしたが、さらに忘れがたいのは2014年の新発見。

ハンガリーのブダペストの古い書庫から、モーツァルトのピアノソナタ・イ長調(K.331)の失われていた自筆譜が見つかったことでした。

モーツァルト生前に出版された楽譜と 
比べてみるとやはり細部の音符が異なります
ハ短調ソナタのフィナーレにおける
出版譜と自筆譜の音符の違いを
別の投稿で指摘しましたが
「トルコ行進曲付き」ソナタも
やはり違っていたのでした

さらにその数年後、生きて動いているリパッティの動画さえも見つかったのでした。

リパッティの場合、旧共産圏のルーマニア国内からではなく、リパッティが晩年を過ごしたスイスからでした。

映像の技術革新のために、再生不可能だと思われていた古い録音映像などが今世紀になって蘇ることもたびたびあるようですが、その一環として、存在しないと思われていた、ディヌ・リパッティ生前の姿を収めたフィルムが見つかったのです。

映像を録るためのビデオカメラは、第二次世界大戦直後の時代には大変に高価で貴重なものだったのですが、2017年になって(奇しくもリパッティ生誕百年の年)1947年のルツェルン音楽祭の情景を撮影した撮影者が他界したことで、遺産を受け継いだ家族が映像を公開することに決めたのでした。

ドキュメンタリーとして世界初公開される予定だったのですが、完成までにまだまだ時間がかかるとのことなので、事前公開が許可されたという事情です。

おかげで、リパッティ生前の動いている姿をわたしもようやく初めて目にすることができました。

演奏中の姿ではなく、音楽祭のパーティの中の一シーンで全体で一分にも満たないものですが、本当に貴重なものです。

公開を許可してくださった故人となった撮影者(ウォルター・シュトレビ:音楽愛好家・法律家)の家族の方に大感謝です。

裕福なスイス・ルツェルンの法律家だったシュトレビ氏は毎年、音楽祭に訪れた音楽家たちを自分の湖畔の別荘に招待して、ガーデンパーティを開いていたのでしたが、彼の趣味は映像を録ることでした。

映像は完全なプライヴェート映像。これまで全く非公開だったわけです。

映像の内容

風光明媚なスイスのルツェルンの音楽祭には、毎年、スイスにゆかりのある音楽家たちが数多く集いました。

発見された映像では、歴史的録音を愛される愛好家の方々にはなじみ深い顔ぶれを見ることができて大変に興味深いものです。

1947年の音楽祭にはディヌ・リパッティも招かれていたのでした。

動画に登場するのは:

  • 指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(戦中のナチス協力疑惑ゆえに演奏禁止処分を受けていたのでしたが、まさにこの映像が撮られた1947年に無罪を獲得して、演奏活動に復帰したばかりのドイツの大指揮者。幸福感あふれる笑顔は音楽活動に復帰できることへの喜びゆえでしょうか)

  • 作曲家兼指揮者イゴール・マルケヴィチ(リパッティは彼の長女の名付け親となったほどに親しかった間柄。奥さんと一緒に楽しそうですね)

  • 指揮者カール・ミュンヒンガー(古楽器復古運動以前のバッハ演奏の第一人者。現在では彼の録音は過去の遺物扱いなのは残念)

  • ソプラノ歌手エリザベート・シュヴァルツコップ(20世紀最大のソプラノの一人。リパッティの親しい友人)

  • ソプラノ歌手マリア・シュターダー(カール・リヒターのバッハ・カンタータ録音でおなじみの名ソプラノ)

  • ヴァイオリン演奏家ナタン・ミルシテイン(ロシア革命を境に西側へと移住したユダヤ人名ヴァイオリニスト。彼のバッハ録音も人類の遺産に認定したい「高貴」な宝物。この人のこともまた別の機会に語りたい)。

  • スイス人作曲家アルチュール・オネゲル(スイス在住の縁からリパッティと親しく交流。バッハ的な対位法音楽を無調音楽隆盛の時代に頑固に書いた人。五曲の交響曲はどれも大変な名作です)

なぜか湖で水泳中の大作曲家(笑)
生まれはスイス人、
育ちはフランス人というオネゲル
1947年には病気療養のために
スイスで生活していたのでした
水泳も療養の一環なのでしょうか
  • 指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン(カラヤンはリパッティ最後の協奏曲録音の共演指揮者。若い頃=40歳のカラヤンのプライヴェートな映像は珍しい。デカンターから直接ワインを飲み干す姿が映し出されています。明らかにカメラ目線でマナー違反を誇示する露悪ぶり。ベルリンフィルの権力掌握後は「偉大なアーティスト」である自分をメディアを通じて精力的に演出していた帝王。いまでは草葉の陰の人なのですが、存命中ならば、この動画がこうして公開されてしまったことをどう思われたことでしょうか。その意味でも貴重な動画)。

デカンターから直接ワインを飲むのは
マナー違反です
おふざけにもほどがあります
わたしはワイン愛好家なので
こういう行為には眉を顰めますね
  • 指揮者パウル・ザッヒャー(スイス在住で20世紀の現代音楽の発展に多大な貢献を行った人物。リパッティとも親しく交流)。

  • 作曲家兼指揮者パウル・ヒンデミット(ナチスに退廃音楽作曲家の烙印を押されて、ドイツを離れてスイスに移住していたドイツの大作曲家)

ヒンデミットの隣にいるのがリパッティ
管弦楽奏者たちに言葉をかけています
演奏アドバイスでしょうか

歴史的録音が大好きなわたしにとって、なじみ深い名前ばかり。

非常に感慨深いですね。

下の動画は48分23秒から始まるようにリンクを張りました。

最初の48分は動画が発見された経緯の説明と公開を許可してくれた撮影者の遺族との会話が収められています。興味のある方は最初からご鑑賞ください。英語のみで悪しからず。

リパッティの動画には音声はなく、代わりにリパッティ作のコンチェルティーノがBGMとして重ねられています。

死の三年前、前途洋々なはずの、まだわずかに30歳の若者でしかないディヌ・リパッティ。

音楽祭には婚約者のマデリーヌさんとの同伴での参加。

二人が法的に結婚するのはリパッティの死の一年前。

マデリーヌさんは既婚者でした。つまり不倫の恋。

老いた夫に離婚を認めてくれるように頼んでいたのですが、夫は頑として許さず、最終的に夫の死をもって二人はようやく合法的に結ばれるのでした。

誰の人生にもいろいろなことがあるものですね。

パーティーの余興として、ヒンデミットによるバスーンのための四重奏曲(原曲不明)が庭で演奏される場面でリパッティが出てきます。

バスーン奏者たちを見守る
作曲家(編曲者)ヒンデミット、リパッティ、マデリーヌ

まだ自分が不治の病で死んでゆくとは知らないリパッティの屈託ない笑顔に胸が締め付けられる思いです。

リパッティは同音楽祭において、やはりヒンデミットの指揮でモーツァルトのニ短調協奏曲を演奏したそうです。

リパッティが最も得意としていて、カデンツァも書いたモーツァルトのニ短調協奏曲、録音が残されなかったのは残念なことです。

録音されたのはハ長調協奏曲 K.467 のみ。

リパッティは他にも、変ロ長調協奏曲 K.595、ハイドンのニ長調協奏曲のカデンツァも書き残しています。

映像の中で流れる音楽は、リパッティ作曲の「古典様式によるコンチェルティーノ」作品3。

リパッティは優れた作曲家でもあったのですが、作曲家としての再評価は今後に期待されます。

十二音無調音楽がヨーロッパの現代音楽の最先端だった時代に、非常に古典的な作品を書いていたために、二十世紀の偉大な作曲家として認知されることは今後ありえないかもしれませんが、とてもチャーミングなピアノ小品などはコンサートなどで弾かれると嬉しいですね。

クララ・ハスキルに献呈されたピアノ曲

例えば、「ノクターン嬰へ短調作品6(1939)」。

とてもいい曲だと思いますよ。

刻まれる左手のリズム、四分音符の裏拍として、規則正しく鳴り続ける八分音符がバロック的でとても印象的。

同時代のフランシス・プーランクを思わせないでもない。

フランス趣味は否めませんが(リパッティもフランス風だと認めています)プーランクは新古典主義なフランス人作曲家なので、バロック要素は間違いなく含まれていて、ロマンティックな二十世紀的バッハ風ともいえるかも。

作品は、同郷ルーマニアの親友ともいえる間柄だったクララ・ハスキル (1895-1960) に献呈されています。

メディアでは師コルトー関連でよく共に論じられますが、二人が知り合ったのはルーマニアのブダペストのことでした。

パリにいたコルトーは二人の出会いには何ら関与していないのです。

師匠が同じだからではなく、同国人の同僚で、音楽的な好みが共通していたために姉と弟のように仲良くなったのですね。

でも年齢差は23歳なので、お母さんと息子なのかも(笑)。

やはり異国(スイス)において母語のルーマニア語で会話できるということは、人と人との絆を深める何よりの要素になります。

リパッティがハスキル宛に書いた手紙は相当の数残されていて、読んでいると引っ込み思案で地味なお姉さん(叔母さん?)を元気で快活な弟(息子)が励ましているという印象を受けて微笑ましい。

次の動画、リパッティ同様に生前のハスキルの動いている姿を録った世界で唯一の映像(昔の本を読むと、ハスキルの映像は残されていない、と言う記述にもよく出会うので、この映像の発見もごく最近のものなのでしょう)。

写真嫌いのハスキルは当然ながら、動画撮影なども全然好きではなかったはずで、演奏風景の動画なども皆無。

なのですが、やはりパーティは特別だったらしく、功成り名を上げてスイスに隠遁していた映画王チャップリンの自宅でのパーティの模様が撮影されたものにはハスキルの姿があります。

相変わらずのお化粧なしでぼさぼさの髪(笑)のハスキルが、老いたチャップリンと手を組んで一緒に歩いている姿、微笑ましいですね。

わたしはハスキルのモーツァルトのソロソナタ(K.330&K.280)の古い録音が大好きなのですが(リマスターしてほしい)愉悦感が欠如した根暗な彼女の独特なピアノには複雑な思いを抱いています。

でもそれもまた、別の機会にでも。

リパッティの死後、実の弟(息子?ハスキルは生涯独身でした)のようにかわいがっていた、リパッティの遺作となったモーツァルトのハ長調協奏曲(カラヤンとの最後の録音)のLP録音を聴きながら、

わたしにはもうこの曲は絶対に弾くことはできない

とハスキルが呟いたというエピソードに胸を打たれたことがあります。

ハスキルはリパッティに

どれほどあなたの才能を羨ましく思う

と何度も語ったそうです。手紙にも書いてあります。

若いリパッティのほとばしる才に憧れていハスキル。

ハスキルは、リパッティとは全く別のタイプの演奏家なのですが、彼女のモーツァルトには彼女にしか出せない音があり、やはり聞きごたえがあります。

生前、リパッティとハスキルは何度もコンサートで共演していたのですが、録音が全く残っていないのは本当に残念です。

リパッティのコンチェルティーノ

リパッティに戻ります。

映像に使用された「古典形式のコンチェルティーノ作品3」について。

題名からわかるように、全四楽章の16分ほどの短い曲。

非常に古典的なのですが、古典派のモーツァルトやハイドンよりも、どこかバロックのバッハの協奏曲を彷彿とさせる響きです。

1936年の作曲。

つまりリパッティ19歳、パリのエコールノルマル作曲科の学生としての最後の卒業作品なのでした。デュカスに作曲を師事していた頃の作品。

第一楽章アレグロ・モデラートは、ト長調で三連符のメロディから始まります。

「ト長調で三連符」、この響きから、すぐにリパッティがアンコールとして弾き続けた「主よ、人の望みの喜びよ」が思い浮かびますよね。

第二楽章アダージョはバッハが大好きだったロ短調。

やはりバッハのイタリア協奏曲のアンダンテを思い起こさせるものです。イタリア協奏曲はニ短調ですが。

第三楽章アレグレット(実質的にスケルツォ)は同時代のストラヴィンスキーやプロコフィエフ風でどこかジャズ的な部分も。

第四楽章フィナーレはソナタ形式の舞曲。冒頭からハイドンのト長調ピアノソナタからの引用が含まれます。ハイドンが突然飛び出してきて驚きます。

録音ではもちろんリパッティがソロピアノを担当しています。

リパッティのバッハ愛は間違いなく本物でした。

リパッティの音楽的精神は、モーツァルトやショパンやリストよりも、最もバッハに親しいものだったといえることでしょう。

ソロフルートのための音楽など、リパッティの作曲で現在でもしばしば演奏会で取り上げられるものは他にもありますが、わたしは彼の作曲の代表曲として「ノクターン」と「コンチェルティーノ」をまず第一に推したいと思います。

完璧な調和の中で光り輝く古典美は、リパッティが残したモーツァルトやバッハやショパンの演奏にみなぎる高貴な精神性と全く同質のものです。


ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。