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ピアノのバッハ 12: バッハは笑う

ゴルドベルク変奏曲の後半部のカノン特集の続きです。


5.6 第六のカノン(六度)

第十八番変奏曲。

拍子はアラ・ブレーヴェ、息の長い二拍子。

Cのような記号に縦線の入った速度記号はルネサンス時代以来の古い記譜法の名残りなので、おおらかに歌う音楽が拍子記号から求められています。

楽譜も伸びる音の多くてたくさんの余白のあり、非常に声楽的。

だから実はチェンバロで演奏するよりも、よりカンタービレなピアノの方が美しいと個人的には思います。

弦楽器や管楽器だとさらに素晴らしい。

一拍遅れて、アルト声部の最初の音のシより、
六度上のソからソプラノ声部が始まります
見事な対位法音楽
右手の声楽的なメロディとは対照的に
左手は器楽的に動き回ります

ゆっくりと鷹揚に。

中世教会音楽のような瞑想的な音空間。

寛ぎの音楽ですね。

5.7 第七のカノン(七度:短調)

第二十一番変奏曲は、後に続く、虚無の深淵をのぞき込むかのような第二十五番同様に、深い悲しみに沈む短調の音楽

明るいト長調の世界に唐突にこのような音楽が紛れ込んでくるからこそ、この曲の価値は何物にも変え難い。

全体の小説数は16小節。

前半八小節、後半八小節。

細かい十六分音符がたくさん書きこまれているので、テンポはゆっくりなアダージョで演奏しないとテンポが速すぎになってしまいます。

ソプラノ声部の憂愁のト短調のカノンの繰り返しのメロディは、二拍遅れてやってきます。

本当に見事なカノン
バッハの楽譜はどれも視覚的にも美しいのですが
これほどに美しい楽譜もバッハとしても珍しい
遅れて奏でられるカノンは完璧に同じメロディをなぞるのです

メロディの最初の音は休符なので、一呼吸をしてから深い悲しみを語り出すといった趣の深いメランコリーの音楽

グレン・グールドのピアノは躊躇いがちにピアノ特有の強弱表現を駆使した胸に迫る世紀の名演です。

チェンバロではこういう弾き方はできないですね。

ピアノという楽器は本当にロマンティック。

ロマン派音楽を体現するために生まれてきたともいえる豊かな音量と表現力の楽器なので、悲壮美を際立たせることに秀でています。

5.8 第八のカノン(オクターヴのカノン)

八分の九拍子。

一拍に三つの音符が含まれるので三拍子。

曲としては、数字の三だらけの音楽。

一拍は四分音符と八分音符の組み合わせが基本なので、ジャズのように跳ねることも可能。

リズムを強調して弾くとジャズになる。

グレン・グールドのピアノ演奏では本当にジャズのように飛び跳ねている。

他のピアニストの演奏と聴き比べてみましたが、やはり演奏自由度において、グルードの右に出る演奏家は存在しません。若いグールドの旧録音の1955年版が特に素晴らしい。

でも八分の九拍子の揺れるメロディは本来は牧歌的な音楽の典型。

この曲は本来はベートーヴェンの田園交響曲のフィナーレやマーラー第一番の第二楽章に通じる音楽ともいえるでしょう。

カノンとしては、オクターヴずれて全く同じメロディが二小節遅れて現れる。

でも初めから最後までつながったメロディではなく、途中でメロディが切れて、別のメロディがまた繰り返されるのです。

楽譜をよく見ると、単純な音符であるにもかかわらず、よく工夫の凝らされたカノンであることがわかります。

二拍遅れてソプラノ声部のメロディが真ん中のアルトに現れる
繰り返しのメロディは赤なのですが、
繰り返される部分が終わると
次につなぐ主旋律が
赤のメロディにつながり、
二小節遅れて
メロディはソプラノ声部に現れます
三番目のメロディもまたアルトから
バッハのカノンは本当に多彩ですね。

5.9 第九のカノン(九度 = オクターヴ+二度)

低音部バスなしのインヴェンション。

九度の音程はポップスやジャズでお馴染みの刺激的な音。

コードで書くならば和音的にはG9。一番下の音がG(ソ)ならば、上に長九度のA(ラ)が引っ付いた和音。

古典音楽では不協和音なので、主音のソや隣り合うシに解決されることが期待されますが、この曲では第二のカノンのように不協和音は響かせられることもなく、縦の線の和声的には十度の協和音の響きに終始します。

全曲の中で最も技術的に安易で弾きやすい。

ピアノ学習初心者が弾くようなインベンションが曲集に含められているのは、一つ前の第26番変奏曲と続く第28番変奏曲と第29番変奏曲が極度に高度な演奏技術を要求する音楽だからですね。

長い変奏曲集後半に並べられた難曲たちの間のオアシスのような音楽。

左手のメロディは右手に受け継がれて、また左手にと、音楽はエコーするかのように両手の間をお互いに呼応してゆくのが美しい

6. 第十のカノン:お気に召すまま

全曲の締めくくりに当たる最後の曲は、大いなる笑いで締め括られます。

この曲には Quod Libet というラテン語の題名が与えられています。

この曲は10度 (オクターヴ+三度) の音程のカノンではありません。

当時のドイツ人ならば誰でも知っていたという、二つの俗謡ポップスに基づいた自由形式のカノン。

これまでのカノンのように厳格に規則正しく繰り返されるのではなく、まさに「Quod Libet」の精神で展開されてゆきます。

Quod Libetを英訳すると、逐語訳で「With Liberty」。

でもこのままでは英語としておかしいので、意訳すると|As you like it《お好きなように》」。

つまり長大な曲集の最後の変奏曲であり、誰もが知るメロディに基づいた曲なので、まじめなフーガのように弾くのでもなく、座興としてお好きなように自由に弾いて下さいというわけなのです。

緑のメロディはテノール声部で現れて、
次の小節で一オクターヴ上で再現され、
一小節飛ばしてまた同じ高さで登場
赤のメロディは最初は四度下がって、次に七度の跳躍
最後のカノンは自由にメロディが再現されます

6.1 笑える庶民の歌のカノン

江戸時代に日本で描かれた「かぶら」の絵
無名の画家によるものですが、作成されたのは1804年
バッハの時代の少し後の日本のかぶら
From Wikipedia

カノンのメロディのひとつは「キャベツとカブの歌」 という高尚さや宗教的な深みからは無縁な歌の最初の二小節の引用。

引用なので最初のさわりの部分を奏でれば、誰だって続きの部分を思い出すという仕組みです。

ゴルトベルク変奏曲に引用されたベルガマスクのメロディ
最初の二小節のメロディは
上記のバッハの楽譜の赤のメロディです

もともとはイタリアのベルガモ地方のメロディだったのですが、ドイツに伝えられると、歌詞が彼らが毎日食べていたキャベツとカブの歌になったのだそうです。

北イタリアのベルガモ地方の踊りが
「ベルガマスク」
ドビュッシーやフォーレの名曲でもおなじみですね

バッハたちが日常、最も親しんでいた野菜の歌がここで飛び出してくるのは、バッハという人物のユーモアセンスの最高の現れですね。

きっとバッハたちはこの最後の曲をチェンバロで奏でながら声を出して歌ったのでは。

この曲の作曲を依頼したと言われているカイザーリンク伯爵も、きっと思いもかけない音楽の冗談に出会って、大満足の笑みを浮かべたことでしょう。

ゴルトベルク変奏曲はエンタメなので、グレン・グールドのように歌いながら楽しく演奏するのが全く正しいのですね。

襟を正して真剣に、ではなく、楽しみながら演奏して、気楽に聴くのがこの曲の本来の楽しみ方。

教会音楽家バッハは、贖罪や、救世主の悲惨極まりない受難や、恐ろしい神の裁きや、死後の墓の歌ばかりを書いていたのではありません。

仕事が終わって教会を離れると、教会音楽家ヨハン・セバスティアン・バッハは、やはり陽気な楽しい普通の人なのでした。

6.2 ピアノよりもゴルトベルク変奏曲を演奏するのに相応しい楽器

ゴルトベルク変奏曲は多声音楽なので、無理に一台の鍵盤楽器で演奏するよりも、弦楽器や管楽器のアンサンブルで別々の楽器にそれぞれのメロディを担当させた方が音楽はわかりやすくなる。

変奏曲の後半では、短調の調べが紛れ込みますが、リコーダーが浮き彫りにする悲しいメロディは、別れの歌のようでピアノで演奏されるよりも切ないです。

この録画のリコーダー五重奏編曲はゴルトベルク変奏曲の本質が炙り出されるような驚くべき演奏。

一番甲高いソプラノリコーダーが「キャベツとカブの歌」(楽譜の赤のメロディ)のメロディを担当。

鍵盤楽器では決してこのようには聞き取れないので、ユーモアと哀愁の管楽器演奏は全く素晴らしい!

7. バッハ音楽の本質: ダ・カーポ・アリア

7.1 笑いに包まれながら

30曲も続いた長大な変奏曲は、微笑ましい音楽で大団円。

バッハの音楽の本質は笑いであるというのがバッハ通やバッハ学者たちに共有される一致した見解。

この言葉がわからないようでは、バッハをまだ十分に理解しているとは言えないと思います。

今日(3月29日)はキリスト受難の聖金曜日なのですが、世界の終わりを思わせる嘆きの受難曲も、三日後の復活祭の歓喜を準備するための音楽なのでした。

バッハはいつだってポジティブな人生観を忘れない、誰よりもたくさん笑う人でした。

次の動画は復活祭オラトリオ。涙の受難曲を聴いた三日後には、キリスト復活を喜び合う音楽をバッハは毎年演奏していたのでした。

神の栄光を称える音楽がバッハ音楽の本質。

そして「救われた」「自分は世の苦しみから救われている」というキリスト者としての思いは、いつだって笑いへと通じているのです。

だからゴルドベルク変奏曲の最後の変奏曲が「笑いの音楽」であることは、ごく自然なことなのです。

バッハは笑う
コーヒーカップと共に(笑)

7.2 ダ・カーポ=循環する世界

微笑ましい最後の変奏曲が終わると、バロック音楽の美学である予定調和のダ・カーポが訪れます。

再び、一番最初のアリアが奏でられるのですが、再現のアリアは最初に弾かれたアリアとは同じようには響かない。

なんだかとても懐かしく感じられる。

一番最初に聴いた時にはこんな思いはしなかったはずです。

繰り返しの有無と演奏テンポ次第ですが、全曲演奏には40分弱から80分ほどかかります。

そのような全曲演奏の後に本当と同じアリアを聴くと、まるで別の音楽のようにアリアはわたしたちの耳に似は届くのです。

まるで物語の最後の章を読み終えたあとのように。

物語とは、行って、帰ってくるというお話

物語の基本は、故郷を離れて冒険の旅に出て、最後には故郷へと帰りつくものですが、冒険を終えた後の物語の主人公には、なつかしい故郷はもはや以前の自分が慣れ親しんでいた故郷とは別のものに思えてしまう

ゴルトベルク変奏曲の最後のアリアは、そんな帰郷の思いを想起させます。

ゴルトベルク変奏曲には、物語の世界に通じる人生の本質が閉じ込められているように思えます。

多彩な変奏曲たちは、人生の旅路でのハプニングやアクシデント、または出会いや別れなどの人生の名場面を象徴しているかのよう。

でも最後にはわたしたちはきっと同じ場所へと帰ってゆくのです。

旅の時間の充実感を心に満たしながらも、冒険や旅の終わりの寂しさを胸に秘めて。

同じ風景が以前とは違って見えてくる。

最後の主音のソが鳴り終わると、家にたどり着いたかのような充実感をいつだって私は感じるのです。

ゴルトベルク変奏曲、最後の音符
最後の小節終始線の上には
音を止める記号がつけられています
(Fermataの原義は
伸ばすではなく「止まる」
たっぷりの余韻を残して
最後の音符を鳴らしましょう

でもまた、楽しかった旅を思い出して、ダ・カーポしても、またもう一度聴き返したくなる。

楽しかった旅には、またもう一度、出てみたいと思うものなのですから。

バッハのように笑いましょう
やはりたくさん笑って
人生は楽しく生きてゆかないと
ゴルトベルク変奏曲はバッハのエンタメ音楽の集大成
まだこの先にも老バッハは
「フーガの技法」や「音楽の捧げもの」
などの真面目な大作を書き上げますが、
娯楽音楽としては、これが一番最後
そして最高傑作!
人を楽しませようとする大バッハの全てが
詰まっている音楽なのだと私は思います

参考文献:



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