見出し画像

ピアノのバッハ 19: 人生最後のバッハ

バッハは、一段鍵盤のための作曲の決定版として「フランス組曲」や「イギリス組曲」を凌駕する作品「六つのパルティータ」を出版した、というのが前回のお話の趣旨でした。

今回は「パルティータ」を人生の最後の音楽として選んだ芸術家たちと、バッハを選ばなかった芸術家たちとの相違から、ピアノのバッハの問題に別の光を当ててみたいと思います。


人生最後に選ばれるバッハ

ピアノ中級者がよく弾く、優雅な楽想と上品な舞曲が詰め込まれたフランス組曲や、ピアノ上級者が演奏会などのプログラムに組むイギリス組曲よりも技巧的に難しい「六つのパルティータ」。

フーガ同様に、音楽的にもバッハの音楽を聴きなれていないと、なかなか理解しにくい音楽なのかもしれません。

でも、だからこそ、「六つのパルティータ」はバッハ最初の出版物として公に出版されたのでした。

ですので、バッハの鍵盤音楽を愛するピアニストが最愛の作品として、人生最後に演奏する作品として選ぶのに最もふさわしい作品の一つといえるでしょう。

ミェチスワフ・ホルショフスキー Mieczysław Horszowski (1892-1993)

パブロ・カザルスやヨーゼフ・シゲティの伴奏者として知られていた名伴奏ピアニストのホルショフスキーが、九十歳を超えた最晩年(1987年: 95歳)に日本のカザルスホールで行ったコンサート(1987年)では、イギリス組曲第五番が演奏会の最初の曲として選ばれました。

とてもゆっくりとしたテンポの前奏曲。

バッハを何十年も奏でてきた人のピアノなのだなと深い感慨に捉われてなりません。

伴奏専門だったので、ソロピアノが少なかったホルショフスキーですが、バッハ作品はは例外的にたくさん録音されていることから、バッハへの深い愛情が窺えます。

平均律曲集第一巻はそれらの素晴らしい録音の中の白眉です。

ホルショフスキーは一世紀にも及ぶ長い人生の間で生涯、バッハをピアノで奏で続けた人でした。

カザルスホール演奏の四年前の90歳だった1983年のライヴでは、ホルショフスキーはパルティータ第二番ハ短調をしみじみをかみしめるようなタッチで演奏しています。

悲劇的ドラマのようなアルゲリッチとは全く別世界のような静謐な世界の第二番です。

ホルショフスキーのバッハを聴いていて面白いと思うのは、伴奏者としての生涯を送ったピアニストは、ソロ・ピアニストとして活躍したピアニストとは明らかに異なる音楽解釈をソロ演奏において披露すること。

伴奏者は目立ち過ぎてはいけないこと(ソロ楽器奏者を際立たせるため)を常に心がけていますので、他の演奏者との共演で、例えばベートーヴェンのヴァイオリンソナタのように、ピアノとヴァイオリンが対等、またはピアノ優位となるような楽曲でも、とても上品で控えめな印象を受けます。

ベートーヴェンやフランクのヴァイオリンソナタなどのようにピアノが大活躍する場合、わたしは自我をむき出しにするソロピアニストとの演奏をより好むのですが(二人が喧嘩するように演奏する方が面白い)、伴奏ピアニストの自分を前面に出し過ぎないバランス感覚ゆえに、彼らがソロ演奏をすると、とても上品で節度を保った美しい演奏を弾かせてくれるのです。

いろんな演奏者がいるので、一概に伴奏専門ピアニストとソロピアニストの特徴の一般論などは導き出せませんが、他の演奏者に寄り添うピアノを生涯をかけて弾き続けてきたホルショフスキーのバッハ演奏は、チェンバロ演奏やチェンバロを模倣したようなグールドのピアノなど、対位法を際立たせる演奏とは全く別世界の音楽。

ホルショフスキーのフランス組曲第六番は、音がブツブツしている(笑)と形容したいほどにリズムをしっかりと刻んでビート感を作り出しながら、それでいて、ソロイストの演奏のように押しつけがましくない、とても上品で優雅なバッハ演奏。

ピアノで奏でるバッハのひとつの理想形です。

ホルショフスキーはすべてのバッハの鍵盤音楽作品を愛した人でしたが、生涯最後にただ一曲だけ、バッハの作品を選ぶとすれば何を選んだのでしょうか?

90歳を超えてもステージに立つことができたホルショフスキーは、パルティータとイギリス組曲のように何曲も奏でることができましたが、やはりこういう曲たちがホルショフスキーのようなピアニストが最後にたどり着くところなのでしょう。

クラウディオ・アラウ Claudio Arrau (1903-1991)

20世紀を代表する名ピアニスト・クラウディオ・アラウ (享年88歳) は、ホルショフスキーとは異なるスター・ソロピアニストの人生を歩んだピアニストでした。

ベートーヴェンとリストを得意としたアラウが人生最後の録音に選んだ音楽もバッハでした。

それがバッハのパルティータでした。

全六曲を録音するつもりが高齢ゆえに最後の一曲を残して、録音からわずか三か月後に天に召されます。

死の三か月前のパルティータは、アラウらしい粒の立った、ピアノという楽器の美しさが最大限に引き出された稀有な演奏。

ダンス音楽的な躍動が高齢による運動量の低下ゆえに乏しいのですが、やはりホルショフスキーにも通じる、ゆっくりとしたテンポでの、音楽作品への慈愛のまなざしのようなものが感じられる素晴らしい名演奏です。

88歳のアラウの演奏は、左手の音が見事に浮き上がる、両手が完全に別々の楽器のような演奏。こういう演奏をわたしは好みます。

バッハの鍵盤音楽は対位法音楽なので、いわば一人で複数の演奏者を演じている音楽。

右手と左手が対等にぶつかり合う音楽です。

トリオ・ソナタ(トリオは三声=三つの声部・三つの楽器という意味)がその典型ですが、対位法的にすべての声部が際立つ演奏をすることがピアノのバッハを成功させる絶対的条件。

両手の音がブレンドしない演奏の方がピアノのバッハには面白い。

しかしながら、長いキャリアを持つアラウのディスコグラフィーを調べられるとすぐにわかることですが、アラウにはバッハ録音はほとんどないのです。

その理由は、1940年代にバッハの鍵盤音楽全演奏!という快挙を成し遂げて、最後にゴルトベルク変奏曲を録音した後、アラウはバッハはピアノで演奏されるにふさわしくないと判断してバッハ音楽の演奏をやめることに決めたためでした。

その後、アラウは公開ではバッハをピアノで演奏することはなかったのでした。

幸いなことに、1942年のゴルトベルク変奏曲は最新のリマスターによって音がよみがえりました。

グールドのセンセーショナルな演奏(1954年録音)の10年以上前の録音なのですが、バッハ音楽への愛情あふれる素敵な演奏。

アラウがピアノで弾くバッハに不満を抱いたであろう、ピアノにおけるトリルがバッハ的ではありませんが(ゴルドベルク変奏曲は装飾音だらけの音楽です)、リズムは端正に刻まれていて、ピアノで演奏するバッハ音楽の限界への挑戦のような演奏でしょうか。

その後、グールドが改良ピアノを用いて、ポリフォニーを浮き上がらせる画期的なゴルトベルク変奏曲を録音するのはご存じの通り。

グールドのカタカタ鳴らす機械的なトリルはチェンバロ音楽の完璧な再現です。

しかしながら、20世紀屈指のベートーヴェン弾き・リスト弾きとして知られるようになったアラウが最期の時を目前にして取り込んだのは、数十年も封印していたバッハ音楽でした。

バッハの鍵盤音楽の醍醐味のひとつには、強拍と弱拍を強調して刻まれるリズム感にあるのですが、アラウ最晩年のパルティータ録音でも、ポツポツと音を刻んで鳴らす美しいピアノのバッハを聞くことができます。

1991年の三月に第一番から第五番まで録音されたのでしたが、第六番だけは録音する体力は残されてはいなくて、同年六月に永眠。

名ピアニスト・アラウが最後に遺してくれた人類の遺産のような録音です。

アラウのバッハへのスタンスから、ピアノで奏でるバッハの難しさを改めて考え込んでしまいます。

ヴィルヘルム・バックハウス Wilhelm Backhaus (1884-1969)

最後の演奏会の録音としては、クラシック音楽ファンの間では、ヴィルヘルム・バックハウス (享年85歳) の演奏会が特に有名。

なのですが、バックハウスが最後に演奏会で演奏したのはロベルト・シューマンの小品でした。バックハウスらしい選曲。

というのも、バックハウスもまた、アラウ同様にバッハをピアノで演奏することをためらっていたような人でした。

バックハウスによる、バッハオンリー演奏会のライヴ演奏が残されています(1956年:バックハウス72歳の演奏)。

バックハウスの演奏、わたしにはバッハらしいリズム感が感じられない、メリハリに乏しい、まことに退屈な録音です。眠たくなってしまう。

この録音を好まれる方はいらっしゃるでしょうか。

ピアノで弾くバッハは難しいのです。

アラウがバッハを弾くことを辞めてしまった理由がよくわかります。

ピアノは19世紀の大きな音が反響するロマンティックな楽器なので、ピアノをピアノらしく演奏するとバッハらしさは損なわれてしまいます

バッハらしさを表現するには、

規則正しい強拍弱拍のアクセントを際立たせること

つまりタというビートを
体感させてくれないといけない
ときには裏拍でタもあり
リズムが際立たないと
バッハは単調な音楽に聞こえる

が不可欠だとわたしは思います。

バッハは、バックハウスが得意としたロマン派的なベートーヴェンと同じようには演奏できないのです。

ちなみにわたしはバックハウスの大ファンです。

彼のほぼすべての英デッカのスタジオ録音CDを所有しているほど。

ですので大ファンゆえの苦言です。

バックハウスのバッハは残念でなりませんが、バッハ嫌いを公言していた評論家宇野功芳氏 (1930-2016) が推薦していました。

理由はバッハらしくないから

おそらくこの批評はきわめて正しい。

ピアノのバッハは難しく、どんなバッハを弾くか好むかで、その人の音楽嗜好がすぐにわかってしまうのは興味深いことです。


次回はディヌ・リパッティのバッハの演奏解釈について。


ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。