物語の二次創作: 原作を改変する
このところ、仕事で小難しい英語論文ばかりを読んでいるので、余暇は日本語のテレビドラマを観ている。
イシグロの小説を英語で読んでいたのだけれども、息抜きにまで外国語で書かれた物語を読んでいると心底疲れてしまう。
これだけ英語の中で暮らしていても英語をどれだけ喋れても、悲しいかな、英語は自分にはどこまでも外国語なのだ。
疲労すると英語の字面は読めても内容までは頭に入らない。
生まれた頃から聞いてきた日本語だけは、いついかなる時でも、どんなに疲れていても、わたしには知覚できる。
たくさんの外国語を勉強してきたけれども、こんな言葉は母語である日本語だけ。
人の脳ってそんなふうにできている。
日本語のテレビなどほとんど観ないので、日本語のドラマに疲れた頭を浸らせることはとても新鮮な体験だ。
自分にはいまでは異文化にさえ思えてしまう日本文化について色々と考えさせられる。
わたしはもう人生の半分以上を外国で過ごしている。母国である日本はもはや異国なのかもしれない。
日本語の漫画は外国に輸出されるほどに優れたメディアなので、話題になった大人向けの漫画には大抵目を通すようにしている。
市民図書館には英語に翻訳された日本由来のGraphic novelsでいっぱいだ。
そういう読み応えのある作品は、しばしば日本ではアニメになったり実写ドラマになるのが優良作品と世間的に認められた証明であるとも言える。
だが、作者の画風をそのまま採用できるアニメ化はともかく、二次元の漫画を三次元の実写の世界に置き換えることは原作そのままの設定を使うことができないなど、いろいろ無理を伴うことが多いので、脚本家は斬新な改変を加えることが定例だ。
改変は改悪にしてはならない。
原作ファンの心情を損ねるような大胆な設定の設定やミスキャストな配役は避けてほしい。
どうしても改変が必要不可欠ならば、良い意味で原作ファンの期待を裏切るような変更が望ましい。
純粋な文学作品としては評価されない、言葉の深みを求めない、言葉の美を必要としないようなライトノベルやミステリー小説も、二次創作化されることで世紀の名作に大化けすることもある。
外国映画で言えば、マリオ・プゾーのゴットファーザーのような作品。
原作は大衆向け小説としてはよく書かれている名作ではあるが、複数回の精読に耐えうる出来ではない。少なくともわたしはそう思う。
でも実写されたフランシス・コッポラ作品は、いまこの雑文を読んでくださっているみなさんの全員がいなくなってしまった百年後であっても、二十世紀の古典映画として長く記憶されて鑑賞され続けていることだろう。
原作は忘れ去られてしまっても。
Wの悲劇
日本映画では、夏樹静子原作の「Wの悲劇」がそういう作品ではないかなと思う。
外国の映画ばかりを見ている自分は、子供の頃に背伸びして観て、子供ながらに大人の世界だと感銘を受けた。
若き日の薬師丸ひろ子を主演に据えた1984年の角川映画を、これまでに見たたくさんの映画の中のベストワンの最有力候補にみなしたいくらいに評価している。
アイドルだった薬師丸ひろ子が主演した青春映画という位置付けでも、子供だった自分には大人びた映画だった。
そして長じて改めて鑑賞してみても、薬師丸はアイドルではなく、歴史的な大女優として素晴らしい演技を披露しているのだなと感嘆する。
数年前大ヒットした前作「セーラー服と機関銃」では、現役高校生の彼女、全くの大根役者だったのに。
今見直すと、あまりの下手さ加減に笑えてしまう。
それだけ努力したという証。彼女は偉いですね。
さて、薬師丸の「Wの悲劇」、映画の冒頭にあるように、本当に大人になったばかりの彼女の魅力が前編に溢れている映画。
わたしにとって、見るたびに新たな発見がある数少ない映画だ。
大資産家和辻家の遺産相続殺人事件を骨子に置いた夏樹静子の原作は、なんとこの映画の中では薬師丸が主演を演じる作中劇とされていて、想定外な斬新な解釈でありながら、原作に込められたW= Womanの悲劇という要素が完璧な形で込められているのだ。
映画の幕切れ、夢破れてもここまで自分を支えてくれた俳優崩れの青年に別れを告げる。
世田公則扮する森田青年は、別れを告げて去ってゆく静香 (薬師丸ひろ子) に対して拍手する。
彼女がカーテンコールで挨拶に現れた女優であるかのように。
言葉にならない様々な思いが胸中に湧き上がってくる中、涙を湛えた彼女はスカートの裾を手に取って膝を曲げてお辞儀をする。
そこで流れてくる薬師丸ひろ子の歌う主題歌。
作曲はユーミンが呉田軽穂名義で薬師丸ひろ子に提供したもの。
わたしは国民的歌手ユーミンをあまり好まないが、短調と長調がとめどもなく入れ替わるこの不思議なメロディ、何度聴いても耳に新鮮で脳裏を去らない奇跡のような音楽だと思う。彼女の書いた作曲の最高傑作なのでは。
若い薬師丸ひろ子の透明な歌声とあまりにもビタースウィートな作品世界が見事に合致している。
こういうどこにゆくのかもわからないけれどもガムシャラに生きている若者。愛してくれない人でも友達でいいから一緒にいてくれとせがる想い。
思い切り失敗してそしてわかることがある。でも若かったからこそ、こういう失敗さえも愛おしいと今では思えるのだ。
ジブリ映画や北野映画の音楽を担当して世界的に知られることになる若い久石譲が映画の印象的な音楽を書いている。
同時期の「風の谷のナウシカ」に通じる透明な音楽は、夢に敗れる悲劇の映画の世界に相応しい。
W nocturne と題されている。ハ短調のノクターンなわけだ。
原作とはここまでかけ離れた作品でありながら、作品の本質を損なうどころか、より深い世界へと視聴者を誘い、少女の成長物語、そして社会的弱者としての女性の物語として作品を普及の名品の高みにまで昇華している、最高のリメイクだと思う。
リメイクのリメイク
1983年のテレビドラマ、そして翌年の映画の成功のため、Wの悲劇は名作と知られるようになったがゆえに、その後も何度もリメイクされる。
1986年、2001年、2010年、2012年、2019年。
わたしが見たのは2012年の八回(八幕として)にわたって放映されたテレビドラマ版。一幕が二時間弱もあるので本当に見応えたっぷりなドラマ。
もはやWの悲劇は古典。
だから斬新な解釈によるリメイクが求められ、当時絶対的な人気を誇っていた武井咲が主演の和辻眞子を演じるのだが、実は眞子には捨てられた双子の妹がいたというオリジナル改変。
一卵性双生児なので瓜二つで全く違う境遇と環境で育った二人はある日突然入れ替わることから物語が大きく動き出す。
社会の一番底辺を生き抜いてきた妹さつきは出生の秘密を知る。そして自分を捨てた和辻家に復讐しようと試みる。
いつだって居場所がなかったさつきは、何不自由なくお嬢様として育った姉の眞子との違いを知れば知るほど、言いようのない大地の奥底のマグマのような湧き上がる怒りに身を任せるが、また和辻家のうちにある歪みに世の中の不条理を知る。
女は政争の道具以上には扱われない窮屈な旧家に生きてきた姉の眞子もまた、人生を選ぶことのできる自由を求めている。しがらみを捨てて新しい人生を探したい。
眞子もまた居場所を探していたのだ。
自分にとって本当に居心地のいいところってどこなのだろう。
本当に時の川を渡る船にはオールはないのだ。
行く川の流れに流されて行き、止まるところを知らない。
原作は昭和の家に縛られていた女の怨念の物語が作品の主題だったのだが、平成版の双子の物語は自分のあるべきところ、居場所が主題となる。
女であることの不条理は今もまた普遍的なテーマなのだろう。
だから今もまた、新しいWの悲劇のリメイクが作られる。
若い武井咲を抜擢した、この大胆なリメイク作品は彼女の名演への評価も絡めて、原作ファンも唸らせるもう一つの見事なWの悲劇だったのでは。
原作同様に何度も何度もドンデン返しを繰り返して、なかなか犯人が誰なのか分からない。
原作では印象的な偽装工作に使われるグラタンのお話も忘れられてはいない。
原作を知った人が観るとますます面白いという二次作品。
こういう作品は作曲家の想いの込められた記号でしかない五線譜を読み込んで、二次創作な解釈を通じて演奏される古典音楽演奏にも通じる。
いろんな解釈があるからこそ、その違いを味わえる。
古典を読む観る面白さ。
現在放映中の「ばらかもん」とか「極主夫道」とか、リメイクが良いなと思った漫画原作の実写ドラマをほかにも観たのだけれども、今日はここまで。
Wの悲劇、まだ知らない人は是非探して見てみてください。
2012年版からはいつしか自分が忘れていたハングリースピリットみたいなものを生き足掻いているさつきの姿から思い出しました。
自分の知らないものを知ると、忘れていたものを思い出せる。たまに観るテレビの名作ほどにそういうものがあるように思えます。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。