おかげさまで、先日「不思議の国のアリス」の詩について書いた投稿が大変好評だったとの連絡を頂きました。
また人気映画「Everything Everybody All at Once」の英語について解説した記事も人気だったそうです。
最近は忙しくてたくさん書けないのですが、先週書いた記事総数二つ、そのどちらも支持されたことは嬉しいことです。
「不思議の国のアリス」の中の詩の続きを書こうを思っていましたが、ナンセンス文学を論じながらも、英語において最もナンセンスなことは、言葉遊びでも、イカれてふざけた登場人物でもなく、英語のアクセントをきちんと使いこなせないことなのでは、という考えに思い至りました。
そこで思い出したのが、カナダの児童文学者モンゴメリの書いた不朽の名作「赤毛のアン」の続編です。
英語のアクセント
英語で一番嫌がられるのは、アクセントを間違えること。特に名前ですね。
こういうのはナンセンスとは見なされずに、相手に怒りの感情を引き起こします。
笑いにはならないのです。
使われる言葉の語順や、語彙の選択が変だったりするのはジョークとして許容されても、英語を「正しい音の英語として」語らぬのは許されないのです。
英語は音の言語です。書き言葉以上に、音における美学が重んじられるのです。
日本語はそんな風な言葉だとは思いません。紙に書いて、漢字やふり仮名などを確認して、初めて風情が感じられるといった感じ。
音読だけでは日本語は理解できません。和歌を心から愛するわたしはことにそう思います。掛け言葉や縁語を一聴で理解して味わうことはほとんど不可能です。
強勢が支配する英語という言語を、強勢のないフランス語訛りや日本語訛りで語ると、英語としては機能しないので、決して理解されません。
ナンセンス英語は、正しい英語の音の文脈でしか理解されないといえるでしょう。
「あなたのアクセントがわからない」といわれると、言葉遊びがそもそも成立しないというわけです。
「アリス」の中ではアクセントの間違いについては全く言及されていません。これは特筆すべきことのように私には思えます。英語を解さない外国人は、アリスの不思議の国には登場しないのです。
「アヴォンリーのアン:邦訳アンの青春」
孤児アン・シャーリーを主人公にした物語「赤毛のアン Anne of Green Gables」の続編の「アンの青春 Anne of Avonlea」では主人公アンは、奨学金受け取りを辞退して、目が不自由なマリラのために母校アヴォンリー小学校で教鞭をとるのですが、アンはまだ17歳。
現代でいうところの高校生。
若くて新米の先生なので、学校の先生としての思いもかけない様々な問題に直面します。これが「赤毛のアン」の続編の主要な物語。
ある子供の親からこんな叱責を受ける場面が出てきます。
Donnellをどう発音するか、いろいろ調べてみましたが、後半にアクセントを置くのが普通なようですね。
ドネルだと、Lの音で舌が上の歯の後ろに跳ね上がり、ネルのルの音が上向きで、詩句の余韻みたいに韻が響いているようで優雅な感じ。
ドネルだと、ネルは下向形で、最初のドが強調されて力強く響きますが、優雅さは感じさせません。
英語詩では前回書いたように、頭韻よりも脚韻の方が詩的なのですから。
まあこんな具合ですが、アクセントが可笑しい例は、ナンセンスとは見做されないのです。
日本語という言葉を外人訛りで「におんぐぉ」と発音したと表記しても面白くないようなものでしょうか。実際にはこんなふうに喋る日本語初心者、たくさんいるのですが。
ちなみにナンセンスという言葉。日本語ではいまでは死語のように使われなくなりました。
もともとのNonsenseは英語発音に近く片仮名で書けば「ノンセンス ˈnɒnsəns 」。Non-はフランス語なので、この言葉もまた、フランス語由来ですね。
「赤毛のアン」に引用された「アリス」
世界名作劇場のアニメ「赤毛のアン」(1979年) には親友のダイアナから、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」の本を借りるという挿話が出てきます。
読み終えた本の話をして、ウサギを追いかけてどんどん落ちてゆくという部分を回想して二人して大笑いしますが、実は「赤毛のアン」原作には「不思議の国のアリス」は登場しないのです。
ですが、「不思議の国のアリス」への何気ない引用が出てきます。
日本語版で読むと、翻訳次第では「アリス」への言及は含まれてはいないこともあるかもしれません。比喩表現なので、割愛する翻訳者もいることでしょう。注釈付きでは物語の興がそがれてしまいます。
私の手元には「赤毛のアン」の日本語版はないので確認はできませんが、第八章にはグリーンゲーブルスに住むことを許されたアンが、近所にはダイアナという少女が近所に住んでるとマリラから聞かされて、ダイアナはどんな子なのかをマリラに尋ねます。
言及部分は作者の言葉なので、アンがこの時点で「不思議の国のアリス」を読んだことがあったかはわかりません。作者モンゴメリは自分の本の読者は「アリス」くらいは読んでるという前提で物語を書いているようですね。
原作の何気ない言及では気がつかないで読み進めてしまう読者も来たかもしれません。
でも「不思議の国のアリス」を知らないと、原作の比喩は何のことだかさっぱりわからないでしょう。
「不思議の国のアリス」の公爵夫人は
という信条の持ち主。
やたらMoralという言葉が大好き。
まあこんな女性。
原作には彼女の夫に当たる公爵 Duke は登場しません。
公爵夫人には赤ちゃんがいるのでそれなりに若いはずですが、イラストを描いたテニエル作の公爵夫人は何とも言えない容姿ですね(笑)。
建前のMoralsと本音の世界
作曲家ヘンデルを雇っていたハノーヴァー王朝始祖のドイツ選帝侯だったジョージ一世を始祖として、四代続いたジョージ王(ジョージ一世から四世まで)の後に即位したヴィクトリア女王の時代に、世界の津々浦々における植民地搾取を武器として大英帝国は最盛期を迎えます。
長い長いヴィクトリア女王時代は極端な道徳主義と禁欲主義、つまるところは偽善主義とまで呼ばれる堅苦しい時代として後の世に知られるようになりますが、そうした世界最強国のヴィクトリア文化の中から生まれたのが「不思議の国のアリス」でした。
大人に「道徳的にふるまいましょう」と言われ続けていたヴィクトリア時代の子供のために書かれた「アリス」のナンセンスは、ああした時代だったからこそ生まれたものだったのでしょうか。
公爵夫人のナンセンス会話を読むと、ああヴィクトリア時代って、と嘆きたくなります。
大人になって時代背景を考えながら読む「不思議の国のアリス」は乙なものです。
次回は赤の女王のお話です。公爵夫人は女王の不機嫌な顔を見て一目散に逃げ出してしまいます。「不思議の国のアリス」後半のナンセンスの主役は女王様です。