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アニメになった児童文学から見えてくる世界<18>:「大切に思ってる」ではなく「愛してる」

世界名作劇場「名犬ラッシー」(1996年1月から8月まで放送) 全二十六話を見ました。とても感銘を受けたので、原作のLassie Come-Homeを世界に知らしめた、1943年に制作された古典名作映画も続けて鑑賞してみました。

この有名な実写映画を見たのは初めてのことでした。古典中の古典ですね。70年以上前の映画ですので、ネットで合法的に無料鑑賞できますよ。

1943年の映画 Lassie Come-Home

1943年という太平洋戦争が激化していた頃に作られていたという作品。同時期の「風と共に去りぬ」同様に非常に美しい映像で、当時のアメリカ合衆国の国力の高さを思い知らされる作品です。よくもまあコリー犬にこんな凄い演技をさせたものですね。

イギリスからアメリカに帰化した原作の小説を書いたエリック・ナイトは、この映画の制作直前、世界大戦に従軍中にアメリカ人として戦死。映画の冒頭ではナイトへの畏敬と感謝を込めた追悼の辞が掲げられています。ナイトは第一次大戦にイギリス兵として参加して、第二次大戦にはアメリカ兵として戦ったという人でした。

映画冒頭における作者エリック・ナイトの業績の紹介

原作に忠実な映画は、コリー犬のラッシーが貧困のために売られてしまう場面から始まります。

英語の映画を見ると、映画のセリフで面白いものがあると書き出しておくのがわたしの習慣ですが、1940年代の古い映画でスコットランドなどイギリスの田舎が何度も出てきて、英語の言い回しに時代を感じたりして感心しました。

ラッシーは女の子(雌犬)なのですが、映画の中でスコットランド方言を話す人はラッシーの美しい毛並みを評して

She's a bonnie girl この子は美人だな

とprettyの代わりにスコットランド英語のbonnieを使っていました。アニーローリーの歌を知らなければ、この言い回しは理解できなかったでしょうね。

また何度も二人称の「おまえ」をThee やThineとするなど、普段耳慣れない古風な表現。

ラッシーがいなくて落ち込んでいる主人公は贈り物(筆記用具一式の入った筆箱)を両親からもらい、サプライズのプレゼントがラッシーの帰還ではないことにがっかりします。そしてジョーはプレゼンを

The champion (特別なもの、大切なもの)

と言い表します。1940年代の貧しい家庭では、筆記用具一式は大変な贈り物です。

また慣用句で

she's off coloured (ラッシーは少し元気ないな)

とか

A friend in need is a friend indeed (まさかの時の友こそ真の友)

なんて表現にも出会えました。

Our lad (わしらの元気な子)とかthat chap (あいつ)とか、今時のハリウッド映画ではまず聞くことのできない古めかしい表現が味わい深い。

アニメ版「名犬ラッシー」

アニメ版は、原作の大半を占めるラッシーのスコットランドから故郷ヨークシャーまでの旅が放送打ち切りのために、たったの二話に縮められていることが非常に残念でした。

なのですが、ラッシーの孤独で辛い旅路を長々と描き出さなくても、アニメ独自のラッシーとジョン少年との別れるまでの物語が非常に充実していたので、アニメはこれはこれでとても見応えのあるものです。悲惨な描写はあまりない方がいいです。

アニメの劇中音楽も、全世界名作劇場作品の中でも非常にレヴェルが高いもので、とても気に入りました。口ずさめる元気になる愉しいメロディ。

主題歌も8ビートの1990年代サウンドな素敵な音楽。作詞は女性だけで構成されていた人気バンド、プリンセス・プリンセスのドラマ―だった富田京子さんによるものです。「終わらない物語」という素敵な詩。

主人公の名前は、原作ではジョー少年、映画ではJoshとも呼ばれていたので、フルネームはジョシュア Joshua かジョゼフ Joshephでしょうか。

1987年放送の「愛の若草物語」の主人公のジョー (ジョゼフィーヌ) と名前が被ることから変更されたのだと推測されます。

犬と少年の友愛

犬は群れを作る動物。犬たちは集団を率いるリーダーに従うことが知られています。

犬が人間の忠実なしもべとなるのもそうした性質ゆえ。犬と少年の関係は、しばしばペットと飼い主という関係を超えて友愛にまで高められます。世界名作劇場第一作の「フランダースの犬」もまたそうした物語でした。

アライグマのラスカルやブッシュベイビーのマーフィがどんなに可愛くても、彼らは忠実さや有能さにおいて、決して犬に及ばない。

本当に犬という動物は特別ですね。優れた犬の飼い主への献身は比類ないものです。

物語の中の犬の有能さは誇張されているとも言えますが、パトラッシュやラッシーのような飼い犬と出会えるということも人生の不思議さかも。

世界名作劇場にはいろんな犬が登場しますが、全ての犬がパトラッシュやラッシーのように飼い主を愛するわけではありません。また「家なき子レミ」のカピのように芸をあれほどまでに覚えたりもしません。

世界名作劇場で描かれる恋

犬と人ばかりではなく、人と人が愛し合えるようになるのも出会い次第。

大人も鑑賞可能なほどに高い水準に作られている世界名作劇場ですが、基本的にこのシリーズは子供が見ることを考慮されていて、どこか教訓的で教育的なことも初期作品にはしばしばあったように思われます。

ですが、ある時期から視聴者の年齢層が上がったのか、恋や愛が描かれたりもしました。

主人公の年齢が一八歳の「トラップ一家物語」や、主人公が大学にまで進学する「私のあしながおじさん」のような作品です。また人気低迷期の最後の作品「家なき子レミ」は後半は原作から完全に逸脱した恋愛物語として物語を終えました。

恋愛要素を取り入れて、かつては幼かったけれども今は大きくなった視聴者を番組シリーズに呼び戻そうという試みだったのでしょうか。

でも子供向けの物語なので、大人の深い愛までは描かれない。愛憎渦巻く複雑な愛を描いても理解される道理もない。

子供の目から見た理想的な父親と母親の間の愛情は、どこか友情に似ていて、子供にはそれが本当の愛に見えるのかなとも思えます。

さて本投稿の趣旨は、本格的な恋愛論などではなく、「名犬ラッシー」に描かれた二つの恋がとても美しいものだと思えたので、それを紹介してみようというものです。

コリンの初恋

少年の日の恋って、大抵は単純な動機から生まれるものです。

大人になっても同じだよと言われる方もいらっしゃるでしょうが、まだウブで無垢な経験のない少年は、思わぬきっかけから誰かを好きになる。大人になったら軽々しく恋はできないのでは。

第19話において、ジョンの親友の病弱で読書好きのコリンは遠足に行き、偶然出会った一人旅の年上らしい少女にほのかな恋情を抱きます。きっかけを作ってくれたのは犬のラッシーでした。本当に犬はこういう時に便利です。

さて十一歳くらいのコリンならば、ただ気が合うというだけで「好き」だって言えるのですが、大人になって結婚するとなると話が違います。

なんとなくで付き合って、気が合うから意気投合して、一緒に暮らして行こうと決めても、大人の男女の間では、ただ気が合うだけではいけません。

特に女性は「愛してる」という言葉にこだわります。愛されていることが人生の至高の目的とみなすような女性には、これが最も大事なこと。

第17話では、ジョンやコリンの学校の担任のカリー先生が結婚することになるのですが、お相手のパン屋の娘さんのメアリーさんはこの「愛してる」という言葉をカリー先生が自分に言うことを忘れている、言うことの大切さを思い出してくれないのならば、結婚式をドタキャンしようとするのです。

どうしてあなたは私と結婚したいの?
愛してるから

愛してるという言葉を一度も語らなくても、確かに日頃の思いやりある行いだけで愛しているという感情は伝えられるし、伝わります。

でも誰かを本当に愛しているならば、どうしてもこの思いを言語化して伝えないといけない。公言しないといけない。

英語では I love youという言葉はあまりに軽々しく口にされすぎて、信用ならないこともよくあります。

だからでしょうか。普段こうした言葉を口にしない男の「愛してる」は重い意味を持つ。という解釈は成り立ちますか? だから時々言えばいいのだと?

英語の国では、このカレー先生の結婚のようなことはありえないかもしれない。

このエピソードは、日本の世界名作劇場のオリジナルなのですが、なかなか興味深いものでした。これも日本的な解釈による外国文学の日本化現象の一例だったかもしれません。

二人の愛の誓いを見守るラッシー

物語の終わり、ラッシーと再会するジョー(ジョン) は「ラッシーが帰ってきた」と抱きしめて、それ以上の言葉は語りません。

たくさん語らないからこそ、映像がより雄弁となる。そういう味わいがこの古い映画にはあるのですが、語らないからいいなあと自分には思えます。

ただ抱きしめるだけでいい。それだけで想いは伝わるのです。コリンの初恋のように。

本当のLoveとは?

英語の中でも最も大事な言葉であるLoveという言葉。

実はこの言葉に対応するきちんとした言葉が日本語には存在しないのです。

「愛してる」という「愛」という漢語を使った言葉は確かにLoveに置き換えられていますが、日本語の愛は本来は性愛のエロスを意味する言葉。

そして「恋してる」という言葉もin loveなんてふうに訳されたりしますが、これもどこか違う。

聖書が文明開花の頃に日本語に初めて翻訳された時、聖書に頻発するLove という言葉は「大切にする」と訳されたのでした。LoveはLoveでもアガペラヴだからですが。愛してると訳してしまうと、どうしても性愛を連想させるのが日本語だったのです。

美しい犬と少年の友愛や、母性愛、父性愛、慈しみ、慈愛、慈悲は、ハリウッド映画でよく耳にする「愛してる」よりも「大切だよ」の方が自分には日本語としてしっくりする。

深い愛情は「愛してる」という外来語では伝わらない。関西の方言で「スキやねん」の方が本当っぽい。感情を言語化しにくいのが現代日本語なのでしょうか?

英語の軽々しく口にされる I love you にどこまで真実味があるのだろう。Loveという言葉は難しい。

「大切」だと思うこと。

愛してると言い続けていないといけない関係はしんどい。言葉でいつも確認していないと安心できない関係は危ういものです。

欧米文化の多くでは、いつだって I love you を言い続けている。言い続けていないとそうではなくなるかのように。言霊ことだま信仰はないはずなのに。

愛されることを求める女性はいつだって「愛してる」と言われていたい。でもいつだって「愛してる」と伝えていないといけない関係は疲れてしまう。

伝えなくなると失われてしまうこともある。大好きな趣味だって、そのことを考えなくなるとどうでもよくなったりしてしまうかも。好きであるためには好きを長続きさせるための刺激が必要。それが I love you という言葉かも。

長年連れ添った信頼し合う老夫婦は美しいけれども、いつまでもロマンティックな関係を維持していたい欧米人は、たとえ年老いても、ひたすら I love you とお互いに言い続ける。

いつだって、誰だって I love you は必要なのか。ジョンはラッシーに I love you とは言い続けない。いつだって信頼し続けている二人。もちろん犬と少年の間の友愛は男女の愛情と同じではない。

子供のための世界名作劇場はそこまで深くは語らない。でも、そこまで深く語らないからこそ、安心してみていられるのかも。

ラッシーのメッセージ

アニメ版「名犬ラッシー」のオリジナルなエピソードからいろんなことを考えてみました。大人になってみる子供のための物語。きっと制作者さんたちのいろんな思いがここに込められていますね。

ジブリアニメにはもっとあざとい性的ほのめかしがたくさん随所に隠されていたりしますが(YouTubeで観れるオタキングの岡田斗司夫さんの解説に詳しいです)、ああいうのは知りたくない。

本当に愛していないのに打算的に「愛してる」と嘯いて駆け引きを繰り広げるモーツァルトオペラの登場人物のような世界は、まだ子供には教えたくはない。

素朴な純愛の世界にとどまり続ける世界名作劇場はイノセントで美しい。

自分にはそうした世界に触れることができることが楽しいし、心洗われるのです。まだ恋や愛の苦しさを知る以前の子供の頃の世界に帰ることができるのですから。

スコットランドからヨークシャーまでの何百キロの苦難の旅を独力で成し遂げるラッシーの偉大さよりも、そんなラッシーが帰りたい故郷の村に住む人たちの暖かさと素朴な愛情のある世界に心打たれた「名犬ラッシー」でした。

26話までしか制作されなかった打ち切りされた残念なアニメですが、大人が見てこそ、そこに描かれる大人たちの世界が面白く、大人だからこそ本当に愉しめるアニメかもしれませんよ。

ようやく本当に結ばれた二人。
ここから二人は本当にお互いを大切と思えるような愛をはぐくまねばなりません。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。