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ピアノのバッハ3:エドウィン・フィッシャーの前奏曲とフーガ(平均率曲集)

千を超える枚数を所有している、過去30年ほどの間に購入したCDを断捨離しています。

音楽鑑賞の方法のパラダイムが変わり、音楽は配信を通じて聴くことが常態化したのが2010年代後半。

CDは個人的な思い入れというもの以上の存在でしかなくなってしまいました。

演奏家や楽曲についての独自の解説であるライナーノーツは貴重です。

特別な情報の宝庫なのです。同じ情報はネットでは手に入らない。これは捨てられない。スキャンしてデジタル化してもいいですが。でもCD本来の目的である音源としての価値は半減してしまいました。

ネットでほとんどの音楽を聴けてしまうし、古い録音だと自分の持っている音源よりも優れた最新のデジタルリマスター版がオンラインで聞けたりもする。

CDだと検索しなくても懐かしい音源をすぐさま見つけ出すことができるけれども、ネット上では探さないとそういう音源は目にすることはできない。

宝物は隠されていて知らないと辿り着けない。YouTubeやSpotiyfyのAIのオススメはそういう特別な録音を教えてはくれない。

音楽鑑賞は趣味なので、各人どんな聞き方をしてもいいのだけれども、整理されたCDの棚を眺めていて、偶然忘れていた懐かしい音源を見つけることは自分にはとても楽しい。

ですがコレクションは場所取りなので、引越しを機に断捨離することにしました。すべては持ってゆかない生活に切り替えるのです。ミニマルな生活をこれからは実践したい。

今日はCD保管庫を眺めていて、見つけた古い録音の話。

ピアノのバッハ(大バッハ)のお話の三回目です。

二十世紀初頭のロマン主義的なバッハ

若い音楽ファンはもうおなじみではないかもしれないけれども、昭和の昔の音楽ファンの間では、第二次大戦前後の「巨匠」の時代の録音を宝物のように大切にして、コレクションしていることがある種のコレクターとしてのステータスでした。

オタクという言葉の起源そのもの。

オタク=あなたは何を持っている?

オタクにはお宅=「あなたのうちに何がある」という意味ももちろんあります

当時は所有していないと音楽とは聴けないものだったのです。

巨匠とは、二十世紀に録音技術が急激に発達して、SP録音から高音質のアナログLP録音が前世紀を極めた頃に活躍した演奏家たちのこと。

SP録音は昭和の初期に日本に入ってきていて、宮沢賢治 (1896-1933) や中原中也 (1907-1937) が夢中になって聞いていたことが知られていますね。

賢治が「セロ弾きのゴーシュ」のインスピレーションを得たのは、彼が購入したドイツの大指揮者ワインガルトナーの指揮したベートーヴェンの田園交響曲だったと言われています。月給一月分全てを叩いて購入したという賢治にわたしは深く共感します。

それほどに録音とは貴重なものでした。

十九世紀の伝統を受け継いだような、極度にロマンチックなマニエリスムな演奏をして、作曲家という神に仕える聖職者や巫女のように奏でた演奏家たちの録音は永遠不滅です。

現代的には当時の発展途上の録音技術のために、巨匠たちの本当の音を伝えていない場合も多々ありますが、賢治の聞いた1920年代はともかく、1950年代にはレコード録音技術は完成していました。

いまでは当時のLPのアナログで生々しい音をディジタルで復刻するようなことが行われていて、当時の古い音を知る人が聴くと、その音の鮮明さと本当の音から伝わる演奏のすごさに圧倒されることも。

「巨匠」の時代の録音は人類の遺産のような宝物です。

演奏スタイルは時代とともに変遷して、特にバッハ演奏は新しいリサーチにおいて、バッハの時代の楽器で演奏することでバッハの時代の音がよみがえると言われるようになりました。いわゆる古楽器演奏です。英語では Authentic とか Period Instrument と呼んでいます。

ですが、だからといってモダン楽器で演奏されるバッハが過去の遺物となったわけではありません。

二十世紀中葉までのバッハは、大変にロマンチックな解釈の施された作曲家本人が望んだような演奏ではないことは確かでしょう。

でも私が以前に書いたように「形容矛盾」としかいいようにない、バッハの時代には存在しなかったモダンピアノのバッハは格別に素晴らしい。

バッハはロマン派的な解釈を加えられても音楽として立派で素晴らしい。

楽譜には書かれていない強弱の変化を自由に付けられて、または演奏者の好みできわめて遅いテンポでロマンチックに奏でられても。

例えばカラヤンのバッハ。

第二次大戦後の新しいバッハ像の確立に貢献した、ドイツの名指揮者カール・リヒターのようなきびきびとしたリズムに乏しい超ロマンティックなバッハだけれども、音楽的にとても美しい演奏。いわゆるバッハらしさが全く欠如しているけれども。

大ピアニスト・エドウィン・フィッシャー

そこで私が聴いたのは、戦前1930年代の録音であるフィッシャーの平均率曲集。日本的にいえば昭和一桁の頃の録音。

平均率曲集とは、バッハが弟子や息子たちのために「練習曲として」書いた、48曲の前奏曲とフーガの曲集。ハ長調やイ短調など24ある音階の調性全てを使って前奏曲付きのフーガを二十四曲を二組、二度にわたって何年もかけてバッハ創作したのです。

最初の曲集は壮年期に。第二巻目は作曲家の人生の終わり近くに。

だから二組の曲集は第一巻と第二巻で内容に変化が見られるのが興味深い。第二巻は内省的でより深く、第一巻は親しみやすく、より生命力に溢れている。

英語の音楽教育の世界では、この曲集、Well-tempered =平均律とは呼ばれないで、単に

48 Preludes and Fugues

と呼ばれます。

きっと現代楽器は平均律に調律されているのが当然なので、平均律という要素を強調する必要はないからでしょうか。

音楽史的には画期的。

平均律という純正律に比べると、無理やり全ての音程を均等にしたので少しズレた調律の鍵盤楽器で演奏できるようにした曲集。どの調性でもハ長調でも嬰ハ短調でも同じように弾けるということを強調したわけですが、逆に言えばそれ以前の鍵盤楽器は曲ごとに最も美しく響く調律をして演奏していたわけです。

ハ長調やト長調が美しく響く純正律の調律では、変イ長調の音楽は濁ってしまったのです。そういう調律ではない、全ての調性を均等に弾けるようにした楽器のための曲集。

しかしですね、そういう当時の楽器の響きの問題はさておき、音楽演奏専門家の鍛錬のための曲集なので、相当な演奏技術がないと弾きこなせないのが問題。

おそらく当時の誰も嬰ハ長調や変ロ短調の音楽なんて滅多に書かなかったはずです。だから弾きにくい。前代未聞の試みだったのです。

さらにはピアノのためではなく、モダンピアノよりもタッチの軽いチェンバロで演奏されることを念頭に置いて書かれているので、ますます演奏難易度は高くなる。

ピアノはタッチが重すぎて、バッハが本来望んでいた音であるトリルやターンなどを奏でるには極めて高い演奏技術が必要とされるし、楽器が違うので、普通に鳴らすだけでは美しく響かない。

ヴィルヘルム・ケンプというバッハ演奏を得意としたドイツの名ピアニストはゴールドベルク変奏曲をピアノで録音するにあたり、チェンバロのトリルなどの装飾音はピアノには似合わないと、彼のゴールドベルク録音にはバッハの書き込んだ装飾音がほとんど割愛されているほど。装飾音だらけの有名なグールドの録音に慣れた耳にはなんとも奇妙な録音なのですが。

十八世紀当時の音楽家には、フーガを理解できることが一流のプロになるための最終的な必須条件のようなものだったので、この曲集の教育的価値は比類ないわけですが、あまりに素人には演奏は大変なのです。

多声音楽では各声部の重なりを縦の和音の塊にしないで弾き分けないといけないのですが、チェンバロと違ってピアノでは重なる音は普通に弾くとブレンドしてしまう。横の線であるメロディを意識していないと多声音楽に聞こえない。

チャイコフスキーピアノコンクールだとか、名のあるピアノコンクールで一番最初の予選でバッハのフーガを参加者に弾かせるのは伊達ではないのです。

フーガは遁走曲と日本語に訳されるように、複数の声部がずれて登場して追いかけ合うように聞こえる音楽です。ズレた音が重なり合っても縦の線の音は美しい和音を形作らないといけない。西洋音楽作曲技能の奥義ですね。

音楽の内容もまた、ただの練習曲集にとどまらず、特に曲集の中の前奏曲には当時のありとあらゆるスタイルの楽曲が多彩に含まれている。トッカータ風、序曲風、サラバンド風、インベンション風など。

フーガも同様に受難曲を思わせるような内省的なもの、ダンス音楽のような躍動感あふれるものなど、性格的に全く異なる個性的な音楽が含まれているわけです。

さて、今回聴いた平均律曲集の録音は、スイスの大ピアニスト・エドウィンフィッシャー (1886-1960)。

音楽録音の黎明期のSP録音において決定版とされていた、というか史上最初の平均律曲集の全曲録音。

あの時代には録音は誰でも出来るものではなかったので、エドウィン・フィッシャーの凄さがその事実だけでも分かります。

そして最新の復刻版からはフィッシャーのパイオニアとしての意気込みが十二分に伝わってくる。

音楽録音もビジネスで、当時の録音には大変なコストがかかり、また商品となったSPレコードも大変に高価なものだったのですから。

ナチスドイツとの確執で知られる大指揮者フルトヴェングラーに認められてベートーヴェンの皇帝協奏曲を録音したのもフィッシャーでした。

エドウィン・フィッシャーは教育者としても知られていて、著書の翻訳が新潮文庫に長らく収められていたぐらい。

古風ですが素晴らしい音楽エッセイで、音楽家の心得のようなものが抑制された文体の中に書かれていました。

なかでも印象的だった言葉は「モーツァルトは心の試金石」。

モーツァルトを弾くとその人の心の状態がわかるというもの、またはその人の音楽への心構えが分かるという意味でもあります。

モーツァルトはテクニックで弾くものではなく、心で弾くものだとフィッシャーは語るのです。

音楽の精神論とも呼べます。

音楽とはリズムとビートで出来ているもの、推進力のある生命力あふれる音楽こそが音楽らしさ、テンポ変化やピアニシモやリタルダンドで音楽の精神表現をするなんてかったるい、なんていう人には無縁な言葉なのかもしれませんが、この言葉にはフィッシャーの音楽的人生が集約されています。

ピアノは体で弾くものだ、音は物理的な振動だなんていう人にはわからない世界かも。

真の剣豪は無刀の境地に至ると言われますが、ピアノがなくても音楽を自由自在に奏でられる境地にフィッシャーは最晩年に達したのかも。

グールドとの比較

わたしは革命児グレン・グールドのビート音楽のようなバッハもまたこよなく愛しますが、バッハの音楽作品の大部分が声楽曲という事実からも分かるように、バッハの音楽には踊りばかりではなく、同時に歌にも溢れているのです。

踊るバッハばかりではなく、十九世紀的にロマンティックに歌うバッハの鍵盤音楽があってもいいはずです。

そんな古風な歌うバッハの代表格がエドウィン・フィッシャーで、わたしがこよなく愛する1954年に夭折したディヌ・リパッティのバッハもまた、フィッシャーのバッハに連なるピアニストだったのだと思います。

グールドが世界的にセンセーションを巻き起こした最初のゴールドベルク変奏曲の録音が作られたのが1955年のことでした。リパッティの死の翌年のこと。1933年から1936年の間にフィッシャーのバッハが録音されてから二十年の後のことでした。

次のブログを読んでの孫引きですが、ピアニストの青柳さんがグールドが一番嫌うタイプのバッハ演奏としてエドウィン・フィッシャーを挙げていたという話を知りました。

さもありなんですね。

グールドは彼以前のバッハ演奏の全てを否定して新しいバッハ演奏の道を切り開いたわけですが、異端児の彼に否定されたからと言って、エドウィン・フィッシャーのバッハが失格なわけではありません。グールドとは全く別のバッハなのですから。

フィッシャーのバッハの魅力

上記の引用したブログの方はグールドがお嫌いなそうで、だから対極にあるフィッシャーのバッハが気に入ったそうです。

それではわたしが見つけたフィッシャーのバッハの魅力について書き出してみましょう

その一: ロマンティックな精神表現

フィッシャーの録音は古い。

最新技術で復刻された録音は九十年前の録音とは思えぬくらいに美しい演奏を現代に伝えてはくれますが、当時の録音はピアノの音を録るのに相応しくなく、生々しい声楽やヴァイオリンの音色と比べると残念で仕方がない。

でも、次の2022年復刻の復刻技術の向上にはまさに脱帽です。

驚くべき技術の進歩。録音エンジニアの方々のすごい仕事。

ひどい復刻版では金盥(かねたらい)を叩いたようなと形容されるほどにピアノの音は歪んだ音に響きます。テープヒスがひどい場合も。

最新の復刻版でも確かにピアノの音は演奏会場のスタインウェイピアノとはほど遠い響きなのですが、慣れるとそれほど悪く感じるものではありません。それどころか普通に鑑賞に耐えうる優れた商品です。

最新のデジタル録音のようにピアノという楽器そのものの華麗な響きを楽しむことは無理なのですが、古くて遠い音でも、1930年代の録音はフィッシャーの強弱を引き分けて各声部を鮮明に表現していることがすぐに聞き取れます。

楽器の音の美をそのものを楽しむのではなく、いかに音楽が表現されるかに注目しましょう。

フィッシャーの絶対的な魅力は彼の音楽的解釈なのです。

モダンピアノはもともとピアノフォルテ (弱音と強音が引き分けられる楽器という命名) という名前が短縮されてピアノになった由来から分かるように、弱い音と強い音を対比させてロマンティックな表現可能にした楽器です。

さらには強い音から弱い音へと変化させたり、テンポを早めたり遅めたりと、演奏の中で音の強弱や遅速を変えることがロマンティック演奏の特徴。残響を残すためのダンパーペダルが存在していて、音を引き伸ばすことができるのがピアノの凄さ。

こういうピアノが完成したのはベートーヴェンの晩年の頃でしたので、作曲当時の時代の演奏方法が大事とされる現代では、それ以前の音楽をロマンティックに表現することは憚られるようになっているほど。

強弱の交代の対比が音楽の肝となる古典派モーツァルトをロマンティックに弾くことは決してしてはいけないとも言われます。ロマンティックな表現のモーツァルトも楽しいのだけれども。

ですが、そういう演奏哲学が成立したのは二十世紀後半のことで、それ以前のフィッシャーは、モーツァルトにおいてもしてはいけないとされるクレッシェンド(音量が次第に増大してゆくこと)やリタルダンド(テンポが途中でどんどん遅くなること)をふんだんに使い、バッハを演奏したのでした。

情緒的なバッハと言えるでしょうか。

そのニ:現代からは失われた、許されない表現方法

ロマン主義的なバッハ。なのですがフィッシャーのバッハの全てがロマンティックなわけではない。

例えばグレン・グールドの弾く第一巻ハ短調の前奏曲。

音楽の運動性が全面に押し出される無窮動なトッカータな音楽。つまり同じ音型が少しずつ変化してゆく音楽。

こういう曲はグールドならば超高速で弾き通せるけれども、グールドは想定外の遅いテンポで極めて表情豊かにロマンティックに奏でる。

逆にフィッシャーはタイプライターのように機械的なタッチで超高速に弾き通す。

フィッシャーの演奏は一般的には模範的。この曲は本来こう言う曲なのですから。

グールドの全く聴き手の期待を裏切る、ゆったりとした弾き方は、異端的とも言えるでしょう。でもこの曲に関してはマニエリスムに徹するグールドの方が圧倒的に面白い。

マニエリスムとは表現過剰のことなのですが、グールドはロマンティックな曲では非ロマン主義に、あまりロマンティックな要素がない曲では逆にロマンティックに奏でているようです。

ある意味、グールド以前の絶対的な平均律曲集の録音だったフィッシャーはグールドのアンチテーゼだったのかもしれません。

総じて、グールドは叙情を排して即物的に弾いてしまう。ブラームス録音のように情緒たっぷりで弾くこともありましたが。

フィッシャーを聴く醍醐味は、精神的に深いと呼びたくなるような表現に溢れている、ゆっくりとしたフーガや歌謡的な前奏曲などを味わうこと。

彼よりもピアノを豪快に鳴らすテクニックに優れたピアニストならば、現代にはアマチュアにだっていくらでもいます。でも誰もフィッシャーのようには表現出来ないはず。

フィッシャーが卓越しているのは表現するためのテクニック。

例えば第一巻イ短調のフーガ。

かなり長い主題なのですが、テーマが普通の強さで奏でられるとテーマの途中からフィッシャーは弱音でメロディを奏でてしまう。

こうした強弱の自由な弾き分けはまさにロマン主義的解釈の領域。古典主義式だとテーマの途中でこんなふうな急変は許されない。ドラマのように語りかける方法を変えてゆく、とても感動的に訴えかけるようなフーガはフィッシャーの表現力の賜物。

バッハにこんな音のドラマはないという批判も当然ありです。でもどこか同時代人の大指揮者フルトヴェングラー的かも。

同じく第一巻ロ長調。

曲集でも最も心表れるような幸福な調べなのですが、適度にテンポが揺れて、集結部は終わることを躊躇うようなリタルダンド。ああいい曲だなあと心から満足してしまう。続く第一巻最後のロ短調も心に染み入るような音楽が揺れ動く演奏。

総じてフィッシャーの演奏はゆっくりとしたテンポのフーガが精神的に深い表現に溢れていて、グールドやリヒテルしか平均律曲集を聞いたことがないという人は是非とも聴いてみてほしいです。フリードリヒ・グルダの叙情的な感じを醸し出すバッハはフィッシャー似ているかも。

嬰ト短調や変ホ短調などのフラットやシャープがたくさんついた、平均律らしい調性の曲たちはバッハが特に力を入れた音楽。こういう調性では声楽曲は書けないので、器楽における実験的な色彩の音楽です。

第一巻の嬰ハ短調はフィッシャーの手にかかるとマタイ受難曲のように荘厳な宗教的悲劇の世界を垣間見せてくれる。

グールドでは快活に弾き飛ばしていたような音もフィッシャーでは全く別の精神的な表現になっていたりもするのです。

第二巻の変ロ短調や嬰ヘ短調のフーガなどでの思い入れタップぶりの深い表現は他のピアニストの演奏からは決して聴くことができないもの。

これほどに違う表現方法を所用してしまうバッハの音楽の幅の広さゆえなのですが、現代のピアニストが決して試みないロマンティックの極みのフィッシャーの演奏は唯一無二です。

またこの演奏を聞いてからグールドの録音を聴くといかに彼の録音が異端的でかつ画期的なのががよくわかるようになります。そういう意味で本当にグールドの録音はフィッシャーへの批判から生まれた録音なのかも。

所有しているCDを以前聞いた時にはフィッシャーの録音の古さしか印象に残らなかったのですが、良い再生機で虚心坦懐に聴く時、やはりフィッシャーは百年の時を経てもこれからも忘れ去られてゆくことのない世紀の名演なのだと実感するのです。

今回発見した2022年(昨年)復刻版には本当に驚きました。奇跡的な鮮明度の復刻ゆえにフィッシャーのバッハの再評価を全てのクラシック音楽ファンにしてほしいですね。

非バッハ的なバッハ演奏の復権

フィッシャーの演奏、本当に古い時代のスタイルのバッハなのですが、クラシック音楽は演奏家の表現の違いを楽しむことに醍醐味があるわけで、こういう十九世紀的な演奏を十八世紀のバッハとは違うと切り捨てるにはあまりにも勿体ない。

同じ1930年代のバッハには、オランダの大指揮者ウィレム・メンゲルベルクのマタイ受難曲がありますが、あの演奏もまた、究極的にロマンティックな伝説の演奏。

超スローな冒頭合唱の凄さ。圧巻です。

こういう演奏は現代では認められないけれども、またそのうちバッハやモーツァルトをロマンティックに演奏しても良いという風潮になることもあるのかも。

作曲家の時代の演奏スタイルで演奏してこそクラシック音楽だなんて風潮が音楽史学者が提唱した古楽器復古運動によって作られてしまいましたが、バロック音楽の全てがあんなに快速なわけがないし、艶のないヴァイオリンの音色でしかバッハを弾いてはならないという法もない。

でも多様化の時代。バッハはきっといつまでもピアノで演奏されるだろうし、バッハをレガートで弾いてもバチが当たるわけでもない。

ピアノの先生はノンレガートにポツポツ弾きなさいと言うのだろうけど。そうしないと試験には通らないから。

思い切りレガートでテンポを激変させてフォルテとピアノを効果的に対比させるピアノのバッハ。そんなバッハを現代のコンサートホールの最新のピアノで奏でられるのをいつの日か聞いてみたいものです。

エドウィン・フィッシャーのバッハ。わたしのようなマニアばかりにではなく、これからの新しいピアニストに知られて欲しい。そしてバッハをロマンティックに弾いてみたいと言って欲しい。ペダルを思い切り使って。

ピアノの、ピアノによる、ピアノのためのバッハ。

これを突き詰めてゆけば真にロマンティックなバッハになる。ピアノという楽器が十九世紀ロマン主義の産物なのですから。

だからきっとロマンティックなバッハ。復権すると思いますよ。

古いCDは捨てます。こうして古い録音が二十一世紀の最新技術で復刻されていることを知ると、古くて懐かしい音源にいつまでもしがみついているのは正しくないことなのだと自戒せざるを得ない。

古い録音の新しい復刻をインターネットで探して当分聴き比べて楽しめそうです。死ぬまで毎日聴き続けても聴き通せないほどの録音が無償で聴けてしまう時代。

何を本当に大切にしてゆけばいいのかわからなくなってしまいます。

Have a wonderful weekend!

わたしの持っている古い三枚セットのフィッシャーのバッハ
デジタルリマスター版ではない日本EMI2000年版

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