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目玉を抉り取られたサムソン: ヘンデルのオラトリオより

ドイツ生まれでイギリスに帰化したヘンデルの音楽を全て聴いてみようと、余暇には膨大な量のヘンデルの全作品を順番にYou Tubeで楽しんでいます。何度も聴いて親しんでいるもの、名前しか知らない未聴作品も山ほどありますが、たいていは無料で視聴できるのです。二十年ほど前にはお小遣いを費やして必死にCDを収集していたことから思うと本当に時代が変わってしまいました。

しかしながら、配信という形はコレクターには物足りないものです。本当に好きなものは個人的に所有しておきたいという思いに囚われてなりません。だからこそ、視聴して受けた音楽的感銘をこうして少しばかりでも言葉にして残しておきたいと思うのです。

ヘンデルの後半生

それまでの人生そのものと言われるほどに青春時代から打ち込んできたイタリアオペラを捨てて、ヘンデルが五十歳を過ぎて第二の人生の生き甲斐として没頭したのは、それまで誰も試みた人のいなかった英語によるオラトリオ創作でした。

英語は基本的にクラシック音楽の世界では極めてマイナーな言語です。

伝統的な西洋音楽の世界では、第一にカトリック教会のラテン語、第二にラテン語が世俗化したイタリア語、そしてようやくフランス語やドイツ語の登場です。

英語で書かれたクラシック音楽など非常に例外的なものでした。ヘンデル以外に英語作品を書いた作曲家でしばしばコンサートホールで取り上げられる音楽家は十七世紀に音楽不毛の地に咲いた徒花であるヘンリー・パーセルのみでしょうか。英語作品は二十世紀になると新たに生み出されるようになりますが、英語圏以外でそれらの作品が頻繁に演奏されるといったことはいまだにありえないことです。

作曲までプロ並みの腕前だった英国王ヘンリー8世や、彼の娘でヴァージンクイーンとして知られた、ヴァージナル(テーブルに備え付けられた鍵盤楽器)の名手だったエリザベス一世が統治していたルネサンス期には英国音楽は隆盛しましたが、その後の清教徒革命内乱時代に英国音楽の伝統はほぼ失われてしまったのです。

そんな音楽不毛の英国において、俗語とされる英語で真面目な音楽を書こうという試みは画期的なものでした。ヘンデルはこの事実だけでも音楽史上に輝かしい存在でしょう。

Virginal
要するに机に内蔵されたハープシコードのことです。家具なので装飾が超豪華。
美しい装飾にも関わらず音域が狭いのが玉に瑕。

オラトリオは宗教的な題材を取り扱った音楽ジャンルですが、教会ではなく劇場で演じられた作品。

歌劇のように歌手が衣装を着たり背景の舞台を用意したりはしないのです。いわば音楽朗読劇。ですので聴きながら想像力を駆使してどんな情景なのかを思い浮かべながら聞くとオラトリオに親しみやすくなります。

朗読なので小説に似ています。オラトリオに比べると、より世俗的なオペラやミュージカルは漫画か絵本的ですね。絵があるので視覚的に分かりやすいのですが、具体的な衣装や舞台に想像力を制約されてしまうと言えるでしょう。演出家の演出力に舞台の成功が掛かるようになるのです。

オラトリオは教会でも演じられる語りと歌が組み合わさったカンタータに似ていますが、より大編成で長大であること、非世俗的であることがオラトリオと呼ばれる必要条件です。ドイツに生きたバッハは教会カンタータを山のように作曲しています。バッハがイタリア音楽ジャンルのオラトリオを作曲したのは彼の人生のほんの一時期、イタリア音楽好きの領主様に媚びる音楽を必要とした時だけでした。

さて人生の半分以上を捧げたオペラをやめたヘンデルですが、神聖な聖書劇は劇場で娯楽として上演されることはヘンデルが生きていた十八世紀英国では許されていなかったのです。

やがてヘンデルのオラトリオ上演成功は後々の作曲家たちの規範となり、ハイドンやメンデルスゾーン、エルガーなど英国にゆかりの深い作曲家たちに伝統として受け継がれてゆきます。

ヘンデルの大作オラトリオ「サムソン」

今回は大傑作メサイア完成後すぐに着手されて短期間で作曲されたドラマチックなオラトリオ「サムソン」を取り上げます。非常にオペラ的で規模においてヘンデルの全オラトリオ中で最大の作品。上演するのに三時間かかります。CDならば必ず三枚組になります。メサイアやソロモンは二枚組なのに。

長いのですが、バッハの長大なオラトリオ「マタイ受難曲」同様に聴きどころだけをハイライトして聴くのが良いですね。マタイはCDならばCD1の最初の大合唱を聴いて、すぐにCD3にして捕縛されたイエスの場面から聴くとちょうど一時間くらいでマタイ受難曲を楽しめます。

同じようにオラトリオ「サムソン」の聴きどころを拾ってみましょうか。

十九世紀にフランスのカミーユ・サン=サーンスが同じ題材をオペラ化しますが、ヘンデル版はサムソンの物語の最後の場面のみを取り上げたものでした。

狡猾な美女デリラに騙されたサムソンは髪を切られて既に両目をくり抜かれて鎖に繋がれています。そこから音楽劇は始まるのです。

旧約聖書の士師記に記されたイスラエルに王がいなかった時代の物語。聖書の記述は簡潔ですが、天路歴程で有名な詩人ジョン・ミルトンの劇詩「苦悩するサムソン Samson agonistes」がヘンデルのオラトリオの台本の下書きとして使われているのです。

ミルトンの書いた長大な韻文を美しく訳すのは骨が折れますが、冒頭部分を抄訳すれば
誰かの手を借りないと歩くこともできず、
牢屋において奴隷の労働をダドンの神のためにさせられている
そして絶え間ない思いが自分の心を支配している
この続きはサムソンの悲嘆と悔恨へと続いてゆきます

ミルトンが書いたドラマは英雄サムソンの大活躍ではなく、囚われのみとなったサムソンの苦悩。

それゆえにミルトンの英雄の苦悩の物語を音楽化したオラトリオ「サムソン」はヘンデルのオラトリオ中でも屈指のドラマに満ちてゆくのです。

レンブラント作「サムソンとデリラ」
デリラ抱かれてうずくまって眠るサムソンの髪を切ろうとして踏み込んできたペリシテ人の兵士
デリラの不安に満ちた表情はそういうつもりではなかったという悔恨の現れでしょうか、この絵画の主役はデリラですね

士師サムソンとは

聖書では、ペリシテ人たちの支配下に置かれたユダヤ人たちの救世主としてユダヤ人たちの指導者ミノアの子を産まない妻に精霊が妊娠を告げるとこらから始まります。

新訳聖書のイエスや洗礼者ヨハネと同じく、神に選ばれて生まれた特別な力が与えられて生まれたのがサムソン。

生まれてから髪を切らないことでライオンを素手で引き裂くほどの怪力をサムソンは神から与えられていたのです。ですので、西洋文化ではサムソンといえば怪力の代名詞。ギリシャ神話のヘラクレスを思わせます。

さて、士師記と言うモーセに導かれてエジプトを脱したユダヤ人たちはイスラエルと言う国を作るために祖先が住んでいたパレスチナに移住しますが、ユダヤ人がいなくなっていたパレスチナにはたくさんの異民族が住み着いていました。

つまりモーセの後継者ヨシュアからイスラエル初代の王サウルまでの歴史は異教の神を奉るペリシテ人との長い抗争の四百年ほどの歴史。

西暦紀元前十五世紀から前十世紀くらいという三千年以上前のお話です。聖書の伝承の全てが事実ではないかもしれませんが、考古学的にヨシュアからサウル王までのイスラエル人が住んでいたという地域を掘り起こして遺跡跡を調べると、ユダヤ人と異教徒との長い血みどろの戦いの痕跡を見つけることができるそうです。

日本史では長い長い縄文時代のこと。文献の残されていない日本の縄文時代ですが、考古学的発掘では日本列島にはイスラエルの地のような血生臭い異民族同士の戦いなどない平和な時代だったらしいです。世界に稀なる日本歴史なのですね。

殺し合いが日常茶飯事な中東イスラエルの英雄サムソンは史実ではおそらく怪力の軍事的リーダーだったのでしょう。サムソンはたくさんのペリシテ人を屠り、異教徒の地にて異教徒に対するイスラエル優位時代を指導したらしいのですが、彼の統治は二十年だったと聖書は伝えます。

終わった理由はペリシテ人によるハニートラップ。

その最後の場面がオラトリオの舞台。

イスラエル部族の士師サムソンに圧倒されたペリシテ人は美女デリラ(英語ではディライラ)をサムソンの元に送り、色仕掛けでサムソンを籠絡しようとするのです。

そうとは知らぬ(?)サムソンは美女デリラを娶ります。

別のペリシテ人の女を以前に妻に迎えていたので警戒心には乏しかったことでしょう。そのために殺されかけたこともあったのに、怪力無双のサムソンは恐れを知りません。

こうして妻となったデリラはサムソンの力の源の秘密を教えてくれと閨房の中で何度も懇願しますが、三度までもサムソンはデリラに真実を語らずに嘘の言葉を吐いてはぐらかします。

しかし男など愚かなもの。

わたしを愛しているならば教えてくれていいはずだと、女性特有の殺し文句でサムソンはついに真実を打ち明けます。

生まれてから切ったことのない結ばれている髪を切ると髪から与えられた霊力は失われて普通の男のようになると教えてしまうのです。

ルーベンス作「サムソンとデリラ」
ルーベンスのデリラはレンブラント作とは異なり、いかにもサムソンを色仕掛けで陥れたという雰囲気が生々しい。見事なまでのサムソンの筋肉の描写はルーベンスならでは
でも深みにおいてはレンブラントが一枚上手のように思えます

やがてデリラに手引きされたペリシテ人たちに髪を切られるのです。

サムソンは捕縛されて両目を抉り取られて虜囚にされ、粉挽の重労働をさせられペリシテ人たちに見せ物にされるのです。

筋肉隆々のサムソンは思慮深くないタイプなのでしょうが、男とはみんなこんなもの。若くて美しい女性に言い寄られるハニートラップにはどんな男も勝てるものではありません。

サムソンがデリラに陥落してゆく場面を音化したのは、フランスのサン=サーンスでした。ヘンデルのオラトリオは聖なるオラトリオなので、こういう俗受けするサムソンが誘惑に負けてしまう場面は含まれていません。

ビゼーのカルメンとドン・ホセにも似たサン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」は作曲家唯一の現在でもしばしば上演される傑作オペラです。

有名な曲を紹介しておきます。サムソンを捉えたペリシテ人たちの勝利を異教の神ダゴンに捧げる音楽やサムソンを誘惑するデリラのアリアはコンサートで単独で取り上げられるほどによく知られています。

ヘンデルのオラトリオ「サムソン」

全曲版は以下の動画から鑑賞できます。英語字幕付きのBBCプロムにおける優れた演奏です。日本語字幕がないのは悪しからず。

第一幕: 苦悩するサムソンの場面

オラトリオは三幕構成で、第一幕は両目を失い失明した囚われの身のサムソンの惨めさが歌われます。

友のミカや父親のミノアらが囚われのサムソンの凋落を悲しみ、サムソンはTotal Eclipse(完全な日蝕=つまり完全な盲)という有名なアリアを歌います。ヘンデル全作品中でも屈指の名アリア。

第一幕は非常に悲しみに満ちた場面。苦悩する人の内面を赤裸々に描き出します。

苦しみにある人、人生の悲しみを知る人の全てはこのサムソンに普遍的に共感することができることでしょうか。ヘンデルの音楽は明るくて朗らかなばかりではないのです。

オラトリオ「サムソン」は19世紀前半に活躍したベートーヴェンがだれよりも尊敬した作曲家でしたが、「サムソン」の楽曲構成の発想は全くベートーヴェンの運命交響曲に似てます。ベートーヴェンに喩えるならば、第一幕は激しく戦いながらも打ち砕かれるようなハ短調の第一楽章に似ています。

第二幕: デリラの愛と決闘の申し込み

第二幕は暗い第一幕から一転して華やかな女声歌手の歌声が響き渡りますが、サムソンをこの恥辱の中に貶めた張本人であるデリラは自分のしたことを悪いとも思わず今でもあなたを愛しているなどと歌うのです。

サムソンは情欲に負けたことを悔いるのですが、デリラは目が見えなくても平気なので一緒に暮らしましょうとなんとも煽情的な歌をデリラは歌います。そしてデリラの友人らしいペルシア人の女性も参加して二重唱。

二人の声質の違うソプラノの饗宴は耳へのご馳走です。

ヘンデルは本当に声の作曲家なのだと改めて感心しますが、やがてサムソンはこんなことを聞いていられるかと怒りの二重唱となります。

デリラとサムソンは決裂して、場面が変わります。

ベートーヴェンに擬えるならば、この場面は歌謡調の明るい第二楽章で、痴話喧嘩のようにも思える明るい歌によるコミカルな場。デリラの歌は場違いなほどに扇状的で夫を裏切ったという良心の呵責など皆無の明るい歌ばかり。やはり結婚してはいけない二人でした。

デリラが退場して続く場面はペリシテ人の戦士ハラファとの対話。ベートーヴェンに擬えるならば再び攻撃的な調子に戻ったスケルツォです。

ハラファは力自慢を始めますが、盲目のサムソンと決闘するのは自分の沽券にかかわるとサムソンを貶めます。しかしいつしか彼の信奉する神ダドンがサムソンの神ヤーヴェよりも優れているために自分が強いというような話となり、旧約聖書に幾度となく現れるどちらの神が正しいかの争いごととなり、ヤーヴェを讃える合唱で幕切れ。

ドラマはそのまま次の幕に持ち越されてゆきます。

第三幕:勝利の歌

最終幕は全幕よりそのまま切れ目なく流れてゆき、これもまたなんとなくベートーヴェン的。

勝利のフィナーレは、オラトリオではサムソンとペリシテ人との舌戦が続いてサムソンはダドン神の祭りに連れ出されますが、三千人のペリシテ人が神殿にてサムソンをあざ笑う中で、サムソンはヤーウェ神への祈りのアリアを歌うと大音響が鳴り響きます。

大地の鳴動するような様を表現する弦楽合奏の強奏。

オーケストラのフォルテによる全奏は神殿の崩れ落ちる音。

父親ハノアと友人ミカは髪が伸び切り神力を取り戻したサムソンが神殿の柱を叩き壊したことで神殿を崩壊させということを悟り、サムソンの最期の偉業を知るのです。

サムソンの死を嘆き、オラトリオ「サウル」でも使われた同じ葬送行進曲が流れるのです。

終結部、サムソンが神殿を引き倒してペリシテ人をせん滅したことを知ったイスラエル人はヤーヴェ神をほめたたえる音楽を歌います。

目も覚めるように素晴らしいイスラエル人の女役のソプラノ歌手のアリアと合唱でオラトリオは終結します。

このソプラノアリアまで、ヘンデルらしい明るく澄んだ歌がほとんどなく、暗くてドラマに満ちた歌ばかりだっただけに最後に歌われる、トランペットの輝かしい響きを伴ったアリアはまことに輝かしい。

トランペットとはこういう輝かしさを表現するための楽器なのですね。舞台にはこのためだけに二人のトランペッターがこの歌直前に登場するのです。

「苦悩を通じて勝利へ」というベートーヴェンのモットーのような音楽。これがオラトリオ「サムソン」なのでした。

ベートーヴェンは死の床で出版されたばかりだった待望のヘンデル全集を受け取ります。ベートーヴェンの伝記の最後の方に必ず書かれている有名なエピソード。

死を目の前にしたベートーヴェンは次のオラトリオ「サウル」を構想することを夢見たまま死んでいったのです。幻となった交響曲第十番が「サウル」交響曲になった可能性もありました。いずれにせよ、ベートーヴェンはヘンデルのような音楽をかきたいと願いながら死んでいったのです。

オラトリオ「サウル」をベートーヴェンに先立って作曲したのはヘンデルでした。ベートーヴェンはバッハを敬愛していましたが、それはバッハの対位法への傾倒ゆえでしたが、本当に好きだったのはヘンデルでした。

ヘンデルの音楽のテーマはいつだって勝利なのです。不遇な一生を送ったバッハの音楽は最後には彼岸における慰めと諦念に終わりますが、人生の勝利者ヘンデルはいつだって快活に明るい歌を書いていたのです。

オラトリオ「サムソン」はそんな勝利するヘンデル音楽の代表作。苦しみを乗り越えて勝利に至るというベートーヴェン哲学の先駆者だったのです。

ヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」の勝利の歌を変奏曲に仕立てたのは、若いベートーヴェンのヘンデル愛の表れ。名作です。

盲目にされたサムソンと盲目だったリア王

わたしはサムソンの物語を子供の頃ではなく、大学生になって聖書に興味をもって旧約聖書を手に取ってから初めてサムソンに出会いました。

旧約聖書は長大な本なのですが(外伝を除いた正典では39冊を数えます)、ほとんどは歴史書です。

最初の5冊はモーセ五書と呼ばれるユダヤ教の最重要聖典(創世記・出エジプト記・モーセの戒律集であるレヴィ記・民数記、申命記)。

五書の最後で八百歳!のモーセが死んで、後継者ヨシュアに率いられたユダヤ人たちによるパレスチナ侵略と植民のヨシュア記。そしてヨシュアの後継者である士師と呼ばれるリーダーたちの記録の歴史書「士師記」。次に預言者サミュエルのサミュエル記。

続くのは預言者サミュエルによってえらばれたイスラエル最初の王のサウル、次のダヴィデ、そして息子のソロモンらの列王記。しかしながらソロモンの子の代になってイスラエル王国は分裂してバビロン捕囚など苦難の道を歩み、救世主の到来を予言する預言者たちの記録が旧約聖書の後半には並ぶのです。詩篇やソロモンの歌といった詩集も含まれています。

こうして旧約聖書を見ると、ユダヤ民族の記録である旧約聖書の歴史中の最盛期はイスラエル王国時代。そのすぐ前の苦難の時代のリーダーがサムソンでした。

旧約聖書のテーマは一貫しています。ただ唯一の神であるヤーヴェを崇めなさい、ほかの神様を信じてはいけません、というものです。

サムソンの話にもペリシテ人が崇める半魚人である海神ダドンが登場しますが、ユダヤ人たちも基本的に多神教が好きで、偶像崇拝も大好き。でもそういう本性を現したときに預言者といわれるような人がモーセを導いてエジプトから故郷の地へと連れ出してくれたヤーヴェ神を信頼しましょうと人々を改心させるのです。もちろん嫉妬深いヤーウェは何度もイスラエルの民を罰するのですが。

ダドン神 Dadon (英語ではカタカナでディードン)

イスラエル王国の賢者ソロモン王は異教徒の妻を娶って異教の神をイスラエル王国内にて崇めることを許して、それがためにソロモン死後にはイスラエル王国は崩壊するということになっています。

サムソンもまた、異教徒の妻を娶って裏切られますが、サムソンの物語の教訓は、盲目にされて辱められて、その中でヤーヴェへと立ち返ることで、本当に大事なことを思い出して死んだということになっています。

キリスト教的には、サムソンもまた、辱めを受けて苦しんだイエスの分身ということになります。苦難の中でダドン神を信奉するペリシテ人に屈しないで、ヤーヴェに祈り、再び怪力を蘇らせて、ダドン神の神殿の柱を押し倒することでペリシテ人を掃討するのです。

盲目になることで本当に大切なことを悟るというテーマから、シェイクスピアの悲劇「リア王」を思い出しました。

悲劇「リア王」は盲目の王の心が開眼する物語

わたしはシェイクスピアが大好きで、ほとんどの作品に英語で親しんでいますが、Noteにはリア王の話はまだ書けていません。

「リア王」はおとぎ話です。フェアリーテールです。リアリティには乏しい寓話的な物語。でもそれだけに象徴的で深い知恵に満ちた戯曲なのです。

マクベスやオセロなどが史実に準じているのとは異なり、遠い昔のイギリスの架空の王様がリア王とされていて、年老いた馬鹿なリア王は領土を生前分与して、甘言を吐いた娘たちを盲目に信用するも、やがて捨てられるのです。

「リア王」を読んで舞台で見て、リア王はなんて馬鹿なやつなんだという教訓を得られる方も多いことでしょう。こんなバカなことはしてはいけないという教訓にもなるのでしょうが、「リア王」の本当のテーマは盲目であること。

権力を失うことで狂気という視覚を得て、リア王は人生の真実を初めて知るのです。

国を失うまでのリア王には何も見えてはいなかった。すべてを失って初めて、愛とはなにか、忠心とはなにか、友情とは何かを悟るのです。

リア王の愚かさをあなた自身の愚かさにも通じると悟られる時、リア王ほどに偉大なシェイクスピア作品は他にないのではという思いに立ち至ります。わたしにはリア王は唯一無二のシェイクスピア最高傑作です。

「マクベス」や「オセロー」を作曲した楽聖ヴェルディが、生涯作曲したくて仕方がなかったのについに作曲できなかった作品でもあります。それほどに深い作品。

象徴的な劇の中、リア王に忠誠を誓っていたグロースター伯もまた息子に裏切られて、サムソンのように両目をくりぬかれて、捨てられます。

自分には行くべき道はない、だから目などいらぬ
目が見えていた時にわたしは転んだのだ

目がいたずらに見えていたからこそ、真実が見えなかった。そして目を失って見えなくなって初めて自分にとって大切な者が誰なのか分かったというのです。

盲目のグロスターはドーヴァー海峡にて狂ったリア王と感動的な再会をします。コーディリアとの再会以上に裏切られた二人が心を通じ合わせる場面は本当に感動的なのです。コーディリアは純真な女性。でも人生に絶望はしていません。本当にリア王と心を通じ合わせるのはグロスターなのです。

両目を抉られたグロスターはすべてを失ったリア王と感動的な再会を果たします。

きっと目が見えていた時にはグロスターは王をこれほどに求めなかったし(王の苦しみを心から知るようになり)リア王はすべてを失ってようやく目が開いたがためにグロスターの真心がわかるようになったのです。

わたしはリア王と旧約聖書「士師記」のサムソンは通じ合うのだと思います。

サムソンもまた、怪力をふるって縦横無尽に活躍していた頃には本当のことは見えていなかった。でも両目を失って、ようやく心の目が開いたのです。

なまじ目が見えていたからこそ、美しい容姿のデリラの肉体に惹かれて、自分に与えられた使命を忘れて、欲望に負けて身を貶めたのです。

リア王やサムソンの末路は悲惨なものだと言えますが、真実を知ることで死んでいったことは素晴らしいことでしょうか。

サムソンは仇敵ペリシテ人を道連れにして崩れ落ちた神殿の下敷きになって死にましたが、きっと笑いながら満足して死んでいったことでしょう。だからこそ、この三千年前の物語がこうして今もなお聖書の一部として読まれて、オラトリオになり、何度も映画にもなり、レンブラントやルーベンスなどという大画家の画題となってきたのです。

1996年の映画「サムソンとデリラ」。イタリアのエンリコ・モリコーネが音楽を担当。

わたしはサムソンを思うと、美女デリアの誘惑に勝てなかった悲しい男のさがに同情します。でもこうして悔い改めるならば挽回することもできるのだということにも勇気づけられます男にとって永遠の課題ですね。男女の愛の駆け引きに真実はあるのか。

人生の真実なんてなかなか見えるものではありません。

だから時々、自分には何も見えていないならばということも考えます。

グロースターの「I stumbled when I saw」という言葉は、「リア王」の中で自分には最も心に響く言葉です。 リア王は愛娘コーディリアの死の知らせを聞いて悲しみのあまりに絶命しますが、盲目の権力者だった頃の彼は決してこれほどにコーディリアを愛することはなかったはずです。リア王の「目」だった権力が失われることで、リア王は本当に見えるようになったのです。

ヘンデルのオラトリオ「サムソン」の盲目のサムソンのアリアを聴いて、この言葉を思い出せたことは収穫でした。

次はサムソンの時代を下ってイスラエルはペリシテ人との長い戦いを終わらせることになる悲劇のサウル王について書いてみたいですね。サウルもまた、サムソンにように躓いて、神に見捨てられて戦死する悲劇の王。彼もまた、どこかシェイクスピアのリア王に似ていますね。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。