シェイクスピアと音楽(10): 「ヴェニスの商人」とは喜劇なのか?
ウィリアム・シェイクスピアの数ある戯曲の中でも最も数多く語られて有名なのが、「ヴェニスの商人」。
シェイクスピアの創作全盛期の1600年ごろの作品。
喜劇であるとされていていますが、解釈次第では悲劇的にもなりえる問題作品。作品が最初に上演されてから400年の時を経ても、いまもなお、作品の価値について議論されている。
2005年にアメリカで制作された映画は、ユダヤ人の金貸しシャイロックに名優アル・パチーノを配して、ヴェニスの商人であるアントーニオよりも、言われなく差別される悲劇的人物シャイロックにより光を当てた解釈の映画でした。
原作第五幕の極めて美しい月明かりのセレナーデの場面の歌もどこか悲しげです。この場面は裁判が終わり、大団円を迎える前の楽しい場面。
でもこの場面を歌う名カウンターテナー、アンドレアス・ショルの歌声は、短調の歌を歌い悲しげで、喜劇の締めくくりの歌としては相応しくらないほどに物悲しい(映画では第五幕冒頭は裁判のある第四幕前に置かれていますが、美しい映画の音楽は楽しさよりももの悲しさを誘うものがほとんど。
フェアリーテイルなのか?
英語の解説書を紐解くと、しばしば「ヴェニスの商人」はお伽噺であると書かれています。
水の都ヴェニスを舞台に繰り広げられる求婚物語はロマンティック。
「夏の世の夢」のように、フェアリーは出てきませんが、仮面に素顔を隠した快楽と享楽の町ヴェニスはどこか非現実な空間です。
世にも美しいと評判のポーシャは外国から大金持ちたちが妻にしたいと競い合うほど。モロッコの太守やフランスやアラゴンの大金持ちの独身男たちが、ポーシャの豪邸に列を成します。
まるで「かぐや姫」か、後にプッチーニがオペラ化する「トゥーランドット姫」のよう。
結婚の条件は、ポーシャの亡き父親が定めたという、金銀鉛の三つの箱を選んで正しい箱を選んだ人が結婚できるというもの。
運試しで嫁取りをさせるのです。
イソップの金の斧と銀の斧の寓話そっくりの発想。
もちろん正解は最も見栄えのしない鉛の箱の中に。
それぞれの箱には、箱にふさわしい言葉が添えられていて、
美しい金の箱には
誰もが本当の愛を望むとは限らない。きっと愛よりも黄金を愛する人の方が多い。そういう人にはポーシャは相応しくないというメッセージ?
銀の箱には
自分に相応しいのがポーシャというのも思い上がり。クリスチャンはもっと謙虚でないといけませんというメッセージでしょうか。
最も美しくない鉛の箱に書かれた言葉は
というもの。
愛のために全てを捨てられるか?
この箱を選ぶ者はポーシャがいれば、他には何もいらないか?
なんともコミカルな場面。
この名場面にシェイクスピアは素晴らしい歌を用意しました。幾人かの作曲家が音楽をつけていて、上記の映画においても、とても素敵な歌が用意されていました。
こういう詩です。Fancyとは自由で気まぐれな想像、思いつきのこと。恋心も一目惚れならばFancyのようなものですね。
ディン、ドン、ベルは「テンペスト」の「五尋の歌」でも歌われた弔いの響き。間違えると恋の終わりだよという歌。
次の動画はアーリエルの歌とFancyの歌が同時に歌われている演奏。シェイクスピア時代のリュートによる演奏。
Ding,dong,bell.
Ding,dong,bell.
Ding,dong,bell.
この運試しの場面の歌、なんと二十世紀フランスのメロディメーカーとして知られるフランシス・プーランク (1899-1963) が英語詩に音楽をつけています。
プーランクらしい軽妙で親しみやすい歌。やはり「Fancy」と名付けられています。
この金銀鉛の箱選びの場面や、後半の最も重要な場面における男装した判事ポーシャによる名裁判など、まさにおとぎ話的にリアリズムから逸脱した、子供も思い切り楽しめるフェアリーテイル。
そしてユダヤ人シャイロックを血も涙もない無慈悲な金貸しとして描き出していることでも(解釈次第で劇は変わります)、シャイロックという個人の人格が見えず、非常に寓話的。
胸の肉一ポンドをめぐる裁判の後には、結婚したばかりの二組のカップルの最初の夫婦の諍いが描かれて、シャイロックという悪者をやり込めた騒動は、まるで結婚したての二人の男の妻へと愛を試すためのゲームが何かという感じもするほど。
シャイロックとアントーニオの命懸けのやりとりの深刻さは、続く喜劇的場面のために帳消しにされてしまいます。
「ヴェニスの商人」の本質とはどこにあるのでしょうか?
喜劇なのか?
喜劇としての「ヴェニスの商人」はこういう構成。
第一幕: ポーシャに結婚を申し込むために借金を返済する必要があるバザーリオは、大金を借りるために、アントーニオに借金保証人になってもらい、金貸しシャイロックから3000ダカットを借り受ける。
第二幕: ポーシャへの求婚者たちのチャレンジ。
第三幕: バザーリオの運試し。鉛の箱を選んで、ポーシャと結婚する権利を得るが、アントーニオの商船は沈没したという知らせが届く。
第四幕: 借金返済が不可能になるシャイロックとアントーニオの裁判。なんとポーシャは裁判官として登場してシャイロックをやり込めるが、男装したポーシャはバザーリオの結婚指輪を説得してもらい受ける。
第五幕: 美しい月夜の晩、結婚初夜に愛の証の大事な指輪を裁判官に渡してしまったことで一悶着。でもポーシャは自分が裁判官に変装していたと告白して、夫婦の関係は女性優位に!二組の新婚は初夜のベッドへ。幕。
このようにみてゆくと、男女の仲のやり取りを面白おかしく舞台化した喜劇以外の何ものもないというのも確かなのですが、「ヴェニスの商人」が今もなお、数百年を経ても問題劇であり続けているのは、シャイロックという悪役の存在。
マクベス夫人もまた、今でも議論されていて、シェイクスピアを読まない人でも、英語圏では「彼女はレイディー・マクベスだ」といえば、ひどい女性だと誰にでも伝わるものです。
ですがシャイロックの問題は「ユダヤ人」であること。
シャイロックがユダヤ人ではなく、普通のヴェニス市民の金貸しならば、ただの悪い奴で終わりです。「オセロー」のイアーゴーは上司オセローを騙して悪事を楽しむ悪い奴ですが、特にイアーゴーの人種や宗教や身体的特徴に特別なものはない。だからイアーゴーはイアーゴーでしかない。
でも金貸しシャイロックのユダヤ問題は、現代のロシアのオリガルヒ問題(ウクライナ戦争の遠因です)にまでつながる、ヨーロッパ史の中核をなす問題。
シャイロックを中心に「ヴェニスの商人」を読み解くと、この物語はただの喜劇には見えてはこなくなるのです。
シャイロックの公の場における法的殺人未遂は、シャイロックという人格によるものではなく、ユダヤ人という生き方を背負う人間の業のようなもの。
金貸しはキリスト教の宗教的理由より忌み嫌われていた職業。
被差別民族のユダヤ人は、日本でいうところの死体処理の仕事を行った、歴史的に「えた非人」と呼ばれた被差別部落の人たちと同じような存在。
ゲットー居住者のユダヤ人=被差別部落の人というだけで、歴史的日本人が部落出身者を敬遠したように、嫌われたのです。
シェイクスピアはあまり宗教を語らない人です。
でもそれは神学的問題を語らないということで、ユダヤ人というキリスト教社会に普通に共存している異教徒を取り扱わないという意味ではない。
この意味で「ヴェニスの商人」はずいぶん異色の劇作品ですが、シェイクスピアが人種差別主義者だったというわけでもない。ステレオタイプなユダヤ人像がここに描かれています。
プーランクや映画の中の運試しの歌を聴いていると、「ヴェニスの商人」は喜劇。
でも今回「ヴェニスの商人」を読み返して、「ヴェニスの商人」は悲劇として読まれるべきではないかなと思わざるを得ないのでした。
2005年の映画はそういう解釈で語りつくされた「ヴェニスの商人」の陰に光を当てているのです。
次回は、悲劇としての「ヴェニスの商人」と、悲劇であることを一切考慮せずに素敵な歌を書いた、英国の国民的作曲家レイフ・ヴォーン=ウィリアムズについてです。
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