「不思議の国のアリス」の言葉遊びの続きです。
「不思議の国のアリス」には二十種類を超える日本語翻訳があるそうです。
わたしの手元にはアリスの日本語版は福音館の大正生まれの生野幸吉さんの1971年の古い本しかないですが、それ以降に出版された新しい翻訳は同じ本ではないのではと疑いたくなるくらいに、原作の言葉遊びの部分の喩えと言葉が異なるはずです。
それほどに翻訳しにくいのです。
英語の言葉遊びだから。
翻訳家泣かせとも言えるし、翻訳家が自分らしい翻訳を作り出せる最良の作品とも言えます。
方言でも口語体でも丁寧調でも擬古文でもきっと面白い。
外国語である英語の言葉遊びは、どんなに努力しようと完璧には訳せないし、いくらでも解釈の幅があるので、個性的な翻訳本をいくらでも作り出せてしまう。
例えば、次の文をどう訳しますか?
難解パートはあえてカタカナにしておきますね。
ちなみにTurtleは海亀、Tortoiseは陸亀で、別のタイプのカメを指すことが一般的です。
カメはカメでも種類は違うのです。
ニセ海亀スープの歌
前回は「教訓が口癖でダジャレ好きなの公爵夫人」を紹介しましたが、今回はニセ海亀 Mock Turtleが語るおかしな英語の話です。
ニセ海亀なんて生き物は現実には存在しないのですが、不思議の国には存在するのです。
「不思議の国のアリス」第九章は物語後半、最終場面の裁判の直前に置かれていて、ニセ海亀の歌を含んだ次の章は、まさに「不思議の国のアリス」のナンセンスのクライマックス。
メロディに乗せて歌われるための歌が含まれています。
この歌は、作者が意図した通りにパセティックに哀愁を漂わせた歌い方がいいですね。
原作の中の歌はもともと、ジェームズ・セイルズ James Sayles の「Star of the evening」という19世紀の歌のパロディなのですが、今では原曲は忘れ去られています。
ニセ海亀のスープを讃える歌
20世紀初頭のヴィクトリア朝時代終わり頃の女流作曲家リサ・リーマンは、後期ロマン派的に最高にロマンティックな作曲をしたりしているけれども、歌詞とのミスマッチの激しさがなんとも言えません。
でもこの作曲は美しすぎて歌詞とはチグハグです。これも作曲家によって意図されたナンセンスの一部かも。
美しい貴婦人よ!と恋する若者が歌う歌みたい笑
Beautifulの日本語訳は「美しい」ですが、美味しい食べ物を褒め称える言葉としても普通に使われます。だからビューティフル・スープなのです。
ちなみにMock Turtle Soup と検索すると、レシピが見つかります。
ミドリ海亀のスープは非常に美味しくてグルメだと伝えられていますが、そのようなフレンチレストランの高級食材を庶民は食べれないので、「ニセ」海亀のスープが18世紀のイギリスで考案されたのだとか。
つまり、アリスのニセ海亀スープは由緒正しい英国料理!
1951年の人気ディズニーアニメではニセ海亀は登場しません。でもちゃんと歌まで書かれて、最後になって割愛されたのです。
「不思議の国のアリス」の中で音楽付きでメロディに乗せて歌われることを前提として書かれた詩は、おそらくこの歌だけ。
いろんなヴァージョンがありますが、わたしが最も気に入ったのは、次のテレビ放映のために制作された歌。
この歌はどこか悲しげでユーモラスなのがいいです。哀愁のニセ海亀なのですから。
現在でも「ニセ海亀スープ」は缶詰として売られています。牛肉と野菜煮込みスープなのですが。
ニセ海亀の身の上話
グリフォンに連れられてアリスは、ニセ海亀の悲しい身の上を聞かされますが、言葉が造語だらけで、日本語版で読むと全く別物になってしまう章と言えるでしょう。
なぜニセ海亀が泣いてばかりで、あまりにも何事にも悲観的なのかは説明されていないし、本文を読んでもよく分かりませんが、おそらくわかる必要もないのです。
こういう性格のキャラで、悲観的な人生観を持つ人のステレオタイプなのでしょう。
ニセ海亀のスープが好物らしいハートの女王が怒ってばかりいるようなものかも。
おそらくウミガメは月夜の番に岸に上がり、涙を流しながら卵を土の中に産むことが知られています。ニセ海亀が鳴きっぱなしなのはウミガメは泣くものだと広く知られていたから。
ちなみにグリフィンとグリフォンは同じ想像上の生き物。
アメリカ英語ではグリフィンが多くて、イギリス英語ではグリフォンなことが多いのです。
さてグリフォンとニセ海亀の章、作者ルイス・キャロルの造語力の多彩さを楽しめる楽しい場面です。
Quadrilleはカドリール?
第十章はエビのカドリールという章名で、章の終わりは上記のニセ海亀の歌で締め括られますが、「エビのカドリール」というダンスにつけられた歌は、ティム・バートンの映画の挿入歌が秀逸です。
カドリールはフランス起源のダンスなので、カタカナ表記はカドリーユがより正しいのですが、英語ではカドリールなのでそのままにしておきます。
カドリールは4人一組で踊るダンスなので、この歌では一緒に踊る仲間を誘うのです。
エビではなく、人間の躍るカドリールの動画がありました。
こんな踊り。これがエビやカタツムリやタラならば、さぞ楽しいことでしょう。
エビの聲!
そして最後は旧約聖書からのパロディ。
作中で語られているように19世紀に人気だった「怠け者の歌」という詩をもじったパロディ詩です。
旧約聖書の愛の歌集の言葉をパロディにした、アイザック・ワッツの「怠け者の歌」はアリスの書かれた頃には広く知られていたのでした。でも今では誰も知りません。
格調高いジェームズ王欽定聖書では次のようなパッセージです。
この聖書の言葉をワッツは次のようにパロディにしました。
第一聯だけ掲載します。ここは完璧にオリジナルの文型を少しいじっただけの名編作でしょう。脚韻は
complain / again
bed / head。
アリスでは変容して以下のようになります。
脚韻も二行ずつ綺麗に整えられたリズムの良い詩ですね。
declare / hair,
nose / toes,
lark / Shark,
around / sound
と綺麗に整えられています。
英語は音読してリズムを味わうのが一番なのだと思わずにはいられません。こういう楽しい詩を読むと。黙読では味わえないものが英語詩にはあります。
次回は「アリス」に載せられた数々の詩の中の最高傑作である、騎士道物語のパロディの「Jabberwocky」についてです。私の大好きな英語の詩です!