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ギャロップ: 踊り狂うクラシック

音楽を構成する三大要素と呼ばれるのは「リズム・ハーモニー・メロディ」。

演奏の上では、強弱のダイナミクスや楽器の音色など、他にも大切な要素がありますが、

  • リズム:律動=規則正しく(律)動くもの

  • ハーモニー:和声=声が和して作られる音響

  • メロディ:旋律=規律をもって旋る(めぐる、ぐるぐるまわる、英語でSwirl)。

このどれが欠けても音楽は成立しないのです。

三大要素のなかでも、リズムはもっとも原始的とも言われています。

リズムを三要素の中で一番下格下として、和声を最も高等な音楽要素とみなしたのは西洋音楽。

最初に合唱ありきの文化だったから、音の重なり合う神秘的な響きが西洋音楽の基本。つまり、中世の教会音楽。

ですが、数百年をかけて音の重なり合いを極めて、高度な和製理論を発達させますが、ついには無調音楽という不毛な音楽にたどり着いてしまうのです。

ですので、クラシック音楽の世界でもリズムはもちろん重要なのですが、リズムの要素を強調することは良識や品位に欠けるとみなされる文化風潮が生まれ、それがクラシック音楽の特徴とさえなったのでした。

ハーモニーやメロディはある意味、理屈で作られています。

理詰めで作るとハーモニーもメロディも非常に複雑化します。

西洋音楽が世界中にある数多くの民族音楽の中で最も高度な音楽とみなされているのは西洋音楽はハーモニーとメロディを極めたからです。

原始的、根源的、最も生命的なものなので、音楽教育を受けたことのない人でもリズムの躍動感には心躍らせることができる、だからハーモニーほどに深みがないという理屈。でもまったくリズム軽視は実は不当なこと。

非西洋音楽の官能的な熱狂を伴うリズムを異端視したり、下等であると軽蔑したりしてきたのは西洋音楽至上主義の悪しき伝統。

西洋音楽のリズムは拍子感というある一定の間隔の強弱の繰り返しに特徴があり、そういう拍子感の洗練にクラシック音楽の味わいがあるわけですが、事実、西洋人もダンスは大好き。

王侯貴族がパトロンだったバロック音楽は舞踏音楽全盛の時代で、だからこそ、大バッハの組曲は舞曲集で、子供や弟子たちのために編まれた、鍵盤楽器用のフランス組曲などは

  • アルマンド

  • クーラント

  • メヌエット

  • ガヴォット

  • ジーグ

などのよく知られたダンスで構成されていました。若い音楽家がこういう舞曲の典型を学ぶことが楽器演奏技術習得練習用の組曲の目的だったのです。

バッハの代表作に舞曲が多いと思われているのはそのためですが(実際には声楽曲が彼の作曲の半分以上を占めています)バロックの器楽音楽は基本的に踊るための音楽なのでした。

優雅な貴族的洗練から外れた激しいリズム感あふれる音楽もやんごとなき王侯貴族のための旧体制な社会が廃れるにしたがって、いわゆるクラシック音楽の世界にも、庶民が愛したキチガイじみたリズムの熱狂は取り入れられて行きました。

ヨーロッパ階級制度が揺るがされたフランス革命前後の世界では、より庶民的な舞踏が鑑賞用音楽に取り入れられるようになり、そんな時代の、当時のヨーロッパにおいては辺境だとされていたハンガリー出身 (オーストリア・ハンガリー帝国の一部だったので帝都ウィーンで勉学できた) 作曲家ヨーゼフ・ハイドンは、積極的に伝統的な貴族社会からは田舎舞踏とみなされていた東ヨーロッパのリズムを取り入れたのです。

そのハイドンの大衆的リズム嗜好を体現した音楽のひとつが、イギリス旅行のために用意した作品74の弦楽四重奏曲第三番ト短調。

通称「騎士」だとか日本語で訳されていますが、英語ではRiderやHorsemanと呼ばれますので、そんなカッコいいニックネームではなく、「騎手」や「馬乗り」なんて言葉の方が正しい訳。

騎士は本来は馬に乗って戦う人のことなので、誤訳ではないのですが、元の言葉はKnightではありません。

いずれにせよ、この曲には馬乗りのひずめのリズムが音楽的動機として使用されていて、第一楽章の音符は装飾音が跳ねて跳ねて、乗馬して飛び跳ねている感じを想起させます。

ピアノ編曲版の楽譜

そしてフィナーレでは駆け足で走りゆく情景を思い起こさせる、急速なリズム感あふれる楽章。

刻むリズムが馬の足音のジェスチャーなわけです。スタッカートがこの特徴を際立てます。タッタッタッタッという響き。

この曲はモーツァルトが大好きだった悲哀溢れるト短調と同じ調性ですが、ハイドンがト短調で曲を書くと全く別の色調に聞こえてきます。

当時の生活には欠かせない交通手段のための馬の走る音はやがてギャロップという舞曲へと発展しますが、1820年代のダンスの本場ウィーンでは危険で野蛮であると禁止されたほどに人気となるのです。

優雅な宮廷ダンスよりも馬のように駆けずり回るギャロップなダンスの方を実はヨーロッパ人は好んだのでした。

ギャロップが大人気を博していたウィーンに住んでいたフランツ・シューベルトは、最晩年、畢生の大作である歌曲集「冬の旅」の作曲のさなか、ベートーヴェンの没した年の1827年の秋に保養地のグラーツを訪れて、グラーツのギャロップというピアノの為の小品を作曲。

友人たちの音楽パーティーを好み、その会では踊らずにひたすらピアノでダンス音楽を弾いていたというシューベルト。いわゆるシューベルディアーデという夜会での楽しい音楽を思い起こさせる音楽です。

十八世紀の宮廷人には粗野であるとされた、庶民が好んだ馬の駆ける音を模したダンス音楽は、やがて作曲家たちに好んで作曲される楽曲の一つとなります。

でも高尚な音楽としてみなされることはないかったのでした。

十九世紀の大衆音楽の王様であるワルツ王シュトラウス父子にもギャロップはあります。二拍子のポルカよりも激しいのがギャロップ。

ロッシーニのウィリアムテルを盗作したシュトラウス父のギャロップは大流行り。

息子のギャロップも非常に楽しい。

こういうリズムが楽しい音楽からはどうしてもメロディやハーモニーの味わいが薄れてしまう。

音楽の三大要素はバランスよく存在できないのです。リズムが強調されると俗になる!メロディもハーモニーも目立たなくなる!

音楽はなんとも難しい。

そして極め付けはフランスのジャック・オッフェンバック

誰もが知る「地獄のギャロップ」は神話「オルフェウスとエウリディーチェ」をパロディにしたオペレッタ「天国と地獄」のなかの音楽。

通俗名曲の代表で、誰もが深い音楽とは思わないけれども、最高に楽しい音楽。この規律正しく刻まれる馬の足音のようなリズムがあってこその音楽。

タタタタ・タタタタ・タタタタタタタ!

西洋音楽とリズムのより芸術的な融合は二十世紀のジャズの登場を待たないといけないのですが、ジャズはジャズで芸術性を極めてゆくと、やはり和声に凝るようになり(クラシック音楽の和声を借用したのです)、響きが複雑化しすぎて、庶民から見放されてしまうのです。

音楽のハーモニーとメロディとリズム。

どれかが飛び抜けて目立ちすぎると、難解になったり俗だと言われたりしてしまう。

メロディも短調音階は愛されるけれども(あまりに半音階の部分に頼ると演歌やスラヴ音楽のように通俗的になる!)技巧に走ると普通の人には歌えない跳躍の音楽になってしまう(イタリアオペラのアリアのようにプロしか歌えない!)。

音楽の洗練ってなんなのでしょうね。

二十世紀初頭にロシア革命で祖国に帰れなくなったピアニスト兼作曲家セルゲイ・ラフマニノフはギャロップのリズムを使って独自のピアニズムの洗練を試みます。

前奏曲作品23の5。鬼神の如きキーシンの演奏!

きっとこれが芸術的ギャロップの最高傑作。何度聞いても胸が躍ります。ショパンのワルツのように、実際には踊れない、ピアノのためのギャロップ。

時が降ると、望郷の作曲家ラフマニノフが戻ることのできなかった、体制側ソヴィエト連邦(現ロシア)の作曲家カバレフスキーはおそらく世界中で最も愛されているギャロップを作曲。

日本では小学校の運動会に欠かせない、子供を馬のように走らせるという教育目的?のために書かれた、かもしれない(笑)という空想さえ思い起こさせる、木琴の調べが素敵なこの曲。

でもそのためか、誰もこの曲を芸術的だとは見なさない。

ギャロップって面白い。

でも躍りの音楽には情緒的な深さや懐かしさがあまり伴われない。

ある意味、リズム主体の音楽には、音楽的躍動の、今ここにある瞬間しかないからです。鳴り終わると消えてしまうような。

余韻を伴う音楽的感動がどこかしら欠けている。

名作映画「ビリー・エリオット」のオーディションの後の面接での言葉を思い出します。

11歳の母を亡くした貧しい炭鉱夫の家庭出身のビリーが家族に最初はダメだと言われながらも、父親に自分のダンスへの思いを認めさせて、スト中でお金のない父親が無理に工面したなけなしのお金でロンドンまで訪れて踊ったその後のこと。

Tutor 1: What does it feel like when you're dancing?
Billy: Don't know. Sorta feels good. Sorta stiff and that, but once I get going... then I like, forget everything. And... sorta disappear. Sorta disappear. Like I feel a change in my whole body. And I've got this fire in my body. I'm just there. Flyin' like a bird. Like electricity. Yeah, like electricity

審査員: あなたは踊っている時、どんなふうに感じましたか
ビリー:分からない。いい感じがするんだ。なんだか固くって、
それだけど、一度踊り出すと… それで、何もかも忘れてしまうんだ。
そして…消えてしまうみたいな感じ。自分が消えてしまうみたいに。
自分の全身が変わってしまうのを感じる。
そして体ん中に火がついたみたいに
僕はただそこにいるんだ。鳥みたいに飛んでいて。
電気=熱情みたいに。
そう、電気みたいな熱い想いそのものみたいに。

踊っていると肉体は消えて想いのみが熱情のみが駆け抜けてゆく。

electricityという言葉には、熱情や情熱という意味も含まれます…電気で撃たれたような思いという意味から。

大地を力強く蹴りかけてかけてゆく馬どころか、空を飛ぶ鳥となり、電気のように瞬時に消えてゆく。

ギャロップの興奮を堪能した後の物悲しさにも似ていなくもない。

「ビリー・エリオット」のこの場面、わたしが見たたくさんの映画の中でも最も好きな場面。

ダンスはリズムの世界の音楽。

メロディやハーモニーは二の次で、どこかクラシック音楽の目指した洗練とは異質のもののように思えます。クラシック音楽はリズムという音楽要素とどこか和解できないでいる。

リズムを強調しすぎるとクラシック音楽はクラシック音楽らしさを失う。

ハイドンから始まってベートーヴェンへと受け継がれて、ベートーヴェンの同時代人シューベルトは、聴衆が二分化しつつあった芸術音楽と通俗音楽の二刀流で自身の音楽を深めるものの、ギャロップという馬乗りを模した音楽はシュトラウスなどのクラシック音楽由来の通俗音楽の代表とみなされるようになりました。

クラシック音楽は頭脳的な和声を重んじるあまりにリズムを体感的な重んじないことで庶民から見放されたのでは。

前回も論じた Body and Soul (精神と肉体) という二元論の問題に思えてなりません。

ハイドンを聴いていて、そんなことを考えていました。

ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。