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スタインウェイピアノの音色

車で一時間半の距離にある海辺の隣町一泊二日でオーケストラ音楽のコンサートを聴きに行きました。

ニュージーランド北島のなかほどの海辺の街タウランガ

わたしの住んでいる内陸の街では、わたしが聴きたいプログラムは組まれなかったのです。

聴きたかったのは、イギリス在住のピアニストのポール・ルイスによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏。

指揮者はブラジル出身の才能溢れる
若いエドゥアルド・シュトラウサー

1972年生まれで50歳のルイスはベートーヴェンを得意としていて、鍵盤の底までしっかりと垂直に打ち抜く、堅実で澄んだ音の演奏が魅力的でした。

演奏技巧をひけひらかさない演奏スタイルは、同じイギリスの往年の名ピアニスト、クリフォード・カーゾンを彷彿とさせます。

わたしが聴いたのと同じ演目のルイスの演奏をYouTubeでも視聴出来ますが,やはりライブにおける味わいは全くの別物です。

音源や動画配信では決して本当の音楽的体験はあり得ないと今更ながら感じ入った素晴らしい演奏会でした。

五つのピアノ協奏曲連続演奏会

金曜日土曜日の夜と日曜日のマチネにおいて、ルイスはベートーヴェンのピアノ協奏曲のすべてを完璧に演奏したのはすごいことですが、それはまさに彼がベートーヴェン弾きとよばれるにふさわしいピアニストであることの証。

YouTubeではルイスが2014年のBBCプロムでドイツのハレ管弦楽団との共演を聴くことができます。

今回私が聞いた中にも第三番は含まれていました。

仕事の都合上がつかず、初日の金曜日(第一番、第四番)は聞き逃しましたが、第三番は二日目のプログラムの一部でした。

ニュージーランド交響楽団との共演。純度の高いアンサンブルによるオーケストラ演奏も見事でしたが、私がことに驚いたのは、コンサートホールのスタインウェイピアノの音。

一台ごとのピアノの個性

ご存じでしょうか?

スタインウェイやベーゼンドルファー、ベヒシュタインのような、伝統ある老舗のグランドピアノは一台ごとに全て微妙に音が異なるのです。

前回のショパンコンクールで大変な存在感を示した新進ピアノメーカーのファツィオリも同じです。

一台ごとに音が違う。

以前、盲目のピアニストの辻井伸行さんがドイツのスタインウェイピアノ工房を訪れた動画を見たことありましたが、何十台と並ぶスタインウェイを一台ごとに試演してゆく辻井さんは一台ごとに音が違うといわれる!

全て同じメーカーのスタインウェイなのに!

わたしは三十年もコンサートホールに通っていますが、残念ながらほとんど自分の街のコンサートホールにばかり通っていて、異なるピアノの生の音を聞くという体験には乏しいのです。

プロの録音にも使用される、わたしの街の素晴らしい音響を誇る中規模サイズのホールにはとても良い音のスタインウェイピアノがありますが、正直なところ、私の最も好きな音のピアノではないのが残念。

これはピアノの個性とわたしの相性の問題。

時々、招聘されて海外などから素晴らしいピアニストが訪れると、いつもと違った音がする(音の出し方が変わるから:実際のところ、名ピアニストほど楽器が潜在的に持つ最良の音を引き出せると言えます)と感動しますが、普段の我が街のスタインウェイピアノは、なんとなくヤマハピアノのように硬質でわたしの好みではないのです。

コンサートにも使用される近所の教会には、古びたベーゼンドルファーピアノがあり、その鄙びた柔らかな音色を心から愛していますが、スタインウェイピアノの輝かしい派手な音は苦手です。

音源でも、ベーゼンドルファー・ピアノを愛用して録音するピアニストを偏愛していたりもします。

録音からもすぐにベーゼンドルファーの響きとわかるアンドラーシュ・シフや、半世紀前のウィリアム・バックハウスのようなヨーロッパ系のピアニストには、スタインウェイピアノ以外のピアノを愛用している方が多くいらっしゃいます。

しかしながら、世界最高峰と見做されるスタインウェイピアノにおいても、一台ごとにそれぞれに異なった個性があり、好みを超えてスタインウェイピアノは全ての音楽ファンを魅了する力を秘めていることもまた確かなのです。

タウランガのベイコート・シアターのスタインウェイピアノ

私が二日にかけて通ったコンサートには、素晴らしいスタインウェイピアノが置かれていましたが、わたしの住むハミルトン市のピアノよりもずっと柔らかな音がしました。

楽器の音が硬いだとか、やわらかいだとか、暖かだとか、こういう形容表現は楽器の持つ物理的な音を人間の言葉に置き換えたものでしかなく、客観的にどれほどに科学的に違うかは説明しがたいのですが、ピアノは打楽器ですので、鍵を打ち付けると、キンキンした音が鳴るし、文字通りに打鍵ではなく、鍵を押すようにして、なでるようにかなでると柔らかな音になります。

どの角度からどれだけの深さの打鍵をするかで音は変わり、鍵盤の底までハンマーが届かないように白い鍵盤部分に微妙な力を伝えることが名手の腕の見せ所。

20世紀のソ連のエミール・ギレリスように剛腕でピアノを打ち砕くように徹底的に鍵盤の底をたたきまくって金属的な音を響かせたピアニストもいますが、わたしは絶対に打楽器的ではない、ピアノの柔らかな音を好みます。

ギレリスもスタインウェイ。でも響きはルイスと全く違う。

タウランガのスタインウェイピアノは、曲目は歌うようなピアニシモから最強のフォルティッシモまで表現することを求めるベートーヴェンでした。

最初に聴いたピアノ協奏曲第二番の第一楽章のソロの最初の音。

とても滑らかな自然な素朴な音で、いわゆるスタインウェイピアノの輝かしい明るい音色ではなく、ベーゼンドルファーピアノのような澄んだ懐かしい響きをポール・ルイスはスタインウェイピアノから引き出したのでした。

最後に聴いた第五番「皇帝」では、ピアニストはクライマックスで鍵盤に全体重を傾けてピアノが作りえる最大の音を打ち出しましたが、それでも金属的な響きはしないで、やはり柔らかな音の塊が会場中に鳴り響いたのでした。

こんなベートーヴェンを聴いたのは初めてでした。本当に素晴らしい体験。

でもYouTubeで数年前に同じピアニストが弾いた皇帝を聴いても同じ音は聞こえてこない。

ここにリンクを張った録音もこれだけ聞けば本当に素晴らしいのですが、実演の音には程遠い。

マイクを通して録音された音では全ての音を拾い切れてはいないし、また動画でルイスが弾いているピアノもわたしが聴いたタウランガのスタインウェイピアノではありません。

ルイスはニュージーランドの首都ウェリントンの大ホールでも同じ「皇帝」を演奏して、大変な評判なのでしたが、あの大ホールのスタインウェイピアノはタウランガのスタインウェイピアノのような清楚な響きはしなかったはず。

まさに一期一会の演奏会なのでした。

こんな柔らかな音のスタインウェイピアノなので、個人的には楽器の音色によりふさわしい、最初に聴いた第二番協奏曲に最も感銘を受けました。

若いベートーヴェンが最初に書いた、先輩モーツァルトの作品に最も近いロココ的な協奏曲。

次回はこのピアノでぜひともモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いてみたいものです。

ルイスが次にこの街まで来てくれるのはいつの頃になるのか、誰にもわからないのですが。

素敵なピアノの音

全てのグランドピアノは違う音がする。

アップライトでも、グランドピアノほどではないにいしても、音が違う。

わたしは万能型のヤマハピアノよりも、より古風で柔らかめな響きがするカワイシゲルピアノを所有して弾いていますが、もしかしたら、タウランガのスタインウェイピアノはわたしのピアノの響きに近いものだったのかもしれません。

この辺りは間違いなく好みです。

こちらの動画はアイスランド交響楽団との共演。やはり第三番。

右にSteinway&Sonという文字がうっすらを読めますよね

そしてアイスランドでもやはりスタインウェイですが、こちらのスタインウェイも音が違う。

全てのスタインウェイに個性がある。

実演でも音はもっと澄んだ音だったでしょうか。

この演奏におけるルイスのタッチもまた素敵です。

インターネットで数多くの動画をこうして視聴できるのですが、ピアノという楽器の音の違いさえも楽しめるのはすごいことですね。

でもコンサートホールにぜひとも足を運ばれてください。実演の音は絶対にどんな再生機を使っても再現不可能なのですから。

音だけではなく、会場の空気に、会場に振動する音を体感すること。

あれだけのホールがないと本当に素晴らしい音は体験できないものですよ。

ちなみに、第二番や第一番が「皇帝」ほどに人気がないのは、やはり「皇帝」協奏曲の曲想の魅力。

第五番のメロディは第一楽章もフィナーレも豪快な上昇形の響き。

広い音域の鍵盤を駆け上るメロディが広々とした音空間を作り出します。

広い音域の主題はやはり大きな音楽を作り出します。

フィナーレ主題
ソプラノ声部の音でBbから11度上のEbまで一気に駆け上がり、
さらにGまで登って下降。
とても豪快な音楽的発想です。
皇帝と呼ばれるに相応しい!

一方、第二番は非常にチャーミングなロココらしさ溢れるモーツァルト的な音型のロンド主題。

音符は変ロ長調のミドーミドーレドシドレと非常に狭い音域の中で弾む。

とても楽しいけれども、聞きなれていない人の耳には、あまりにクラシック=古典的すぎるのかも。わたしは大好きなのだけれども。

若書きのピアノ協奏曲第二番

折角ですので、最後にわたしが聴いた中で最も感銘を受けた第二番のスタジオ録音を紹介しておきます。

出版において、作曲家がより出来がいいと考えた二番目に完成した作品が第一番(作品15)として出版されましたが、実質的には第二番(作品19)がベートーヴェン最初の協奏曲です。

2:35から始まるピアノソロ。やはり素晴らしい美音です。

鍵盤に手を這わせるようにして、鍵盤に指先がしっかりと触れてから押しているという感じな弾き方だからできる音出しなのでしょうね。ルイスの名人芸です。

ルイスの演奏は、ペダル奏法を駆使して曖昧な音色を特徴とするリストやショパンには似合わない、まさに厳格な音の構成から構築されているベートーヴェンのピアノ音楽を演奏するためにあるような素晴らしい鍵盤捌きだと思います。

ルイスがあなたの街に訪れることがあれば、ぜひとも体験なさってください。

名演奏家はいつまでも世界中を飛び回るような演奏活動を生涯続けるわけではありません。伝説のグレン・グールドのように突然ドロップアウト宣言したり、演奏活動をやめてしまう演奏家は数多いのです。

それほどに世界中を飛び回る演奏活動は過酷。

いつまでも演奏旅行を続けてくれるという保証はどこにもありません。

今が旬の現在最高のベートーヴェン弾きの一人がポール・ルイスです。

長年クラシック音楽ばかり聴き続けてきた、わたしの今一番の一押しピアニストです。




ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。