ピアノのバッハ 20: ディヌ・リパッティのパルティータまでの道のり
前回は、人生の終わりに美しいバッハを奏でた名演奏家たちのお話をしました。
今回は、人生をかけてバッハの鍵盤音楽を弾き続けた、夭折した天才音楽家の最後の演奏会を紹介するまでの導入部。
ディヌ・リパッティのバッハこそは、「ピアノのバッハ」の究極にして、空前絶後のクラシック音楽界の伝説です。
ディヌ・リパッティ(1917‐1950)
ホルショフスキーやアラウなどの名ピアニストたちは、数十年にわたる偉大なピアノ演奏実績を積み重ねて、果てには誰も真似しえないような素敵なバッハ演奏を披露してくれたのでした。
彼等のバッハ演奏は齢八十歳を超えるまで生き抜いて、たどり着いた人生の結論としてのバッハ演奏でした。
なのですが、モーツァルト(36歳弱で他界)やシューベルト(31歳で他界)のように、長命の彼らの半分の命も生きることができないとすれば、二十代や三十代の若者でも、早すぎる死を迎える覚悟を抱いて、人生の最後を迎えてゆくとすれば、それもまた、人生の最晩年です。
ディヌ・リパッティ (1917-1950) は33年しか生きることができませんでした。
つまりホルショフスキーの三分の一。
でも人生とは、量ではなく、質が問題。
いかに生きるか!
リパッティのバッハには、夭折した天才音楽家の全てが込められています。
リパッティの前半生はこちらで紹介しました。
以下はリパッティの物語の続きです。
最後の輝き
第二次世界大戦の戦火が下火になろうとしていた頃、輝かしい欧州演奏旅行を終えて、永世中立国スイスのジュネーヴに腰を据えたリパッティは、原因不明の病魔に取り憑かれるようになります。
誰よりも高貴な演奏を奏でる、超絶的な技巧を持つピアニストの名声は高まるばかりだったのですが、高熱にうなされて数週間病床で過ごした後、再び演奏会に向かうというような生活が始まります。
衰えゆく肉体を労わりながらも、
クララ・ハスキル (1895-1960) や、ジョルジュ・エネスコ (1881-1955) などの同郷ルーマニアの音楽家たち
スイスの指揮者エルネスト・アンセルメ (1883-1969)
スイスの指揮者パウル・ザッハー (1906-1999)
スイスの作曲家アルチュール・オネゲル (1892-1955)
同じスイス在住の尊敬する大ピアニストであるエドウィン・フィッシャー (1886-1960)
同じくスイス在住のヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969)
などと親しく交流して、さらに自身の音楽への研鑽を深めてゆくのでした。
ジュネーヴ音楽院のピアノ演奏の教授にも任命され、作曲とともに教職にも精を入れるのですが、病状は一向に改善せず、不治の病であると悟ったころには、もはや命の炎はほとんど消えかけていたのでした。
それでも病魔との戦いの合間には、今では伝説となっている数々の名録音がレコード盤に刻まれてゆくのでした。
オーケストラとの共演も積極的に組まれて、十年先の1957年までの演奏会の予定が計画されたほどでした(演奏会は病気ゆえにキャンセルばかり。でもどのコンサートチケットも瞬時に売り切れ)。
トスカニーニとカラヤンの言葉
偉大な指揮者たちとも数多くの共演を行いました。
二十世紀最大の指揮者と呼ばれるアルトゥーロ・トスカニーニ (1867-1957)とショパンのホ短調協奏曲を協演したときには
とトスカニーニに叫ばせたほどでした。
世紀の名ピアニストである、娘婿のホロヴィッツ (1903-1989) のショパンのルバートは、トスカニーニの耳には気まぐれに過ぎたということでしょうか(笑)。
ホロヴィッツはトスカニーニの娘ワンダと結婚していました。
もちろん、トスカニーニとホロヴィッツは何度も共演していて、チャイコフスキーの協奏曲など、唯一無二の圧巻の録音なども多数残されています。
ホロヴィッツはともかく、普段ならばリハーサルに他の音楽家を招待するようなことをしないトスカニーニなのでしたが、若いリパッティには後学になるからと積極的に招待したほど、トスカニーニはリパッティを気に入るのでした。
リパッティは名誉なことなので二度リハーサルを見学。
リハーサルにおける、悪評高いトスカニーニの悪口雑言には辟易したのでしたが。手紙にそう書いてあります(笑)。
独裁者トスカニーニは、リハーサル中に自分の意にそわぬ演奏をするオーケストラメンバーを大勢の面前で罵倒することで有名でした。
今では完全なパワハラ・モラハラです。
こんな人が二十世紀最大の指揮者だとは。
トスカニーニの宿敵であるドイツの大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー (1886-1954) とのシューマン演奏も計画されましたが、リパッティ早世のために実現せず、録音に選ばれたのはヘルヴェルト・フォン・カラヤン (1908-1989) でした。
カラヤンもまた、リパッティの尋常ならざる演奏を絶賛。
カラヤン&フィルハーモニア管弦楽団とは1948年4月にシューマンのイ短調協奏曲を録音、さらに最後の演奏会の一月前の1950年8月23日にルツェルンにおいてモーツァルトのハ長調協奏曲 K.467 を録音。
モーツァルトのハ長調協奏曲は、録音さえよければ、現在でも最美のモーツァルト録音に数えられたであろう、稀有な美しい表現に彩られた演奏です。両端楽章のカデンツァはもちろんリパッティ作。
残念ながら、YouTubeには最新リマスター録音は見当たりません。
ぜひアップしてほしいものです。古い録音はオケの音が訛っています。
リパッティの奏でるピアノの音はずっと鮮明にとらえられているのですが、ピアノの音の美しさを楽しめるほどのものではありません。最弱音の表現など、リパッティらしい独特の音楽表現を楽しむことはできますが。
シューマンは、特撮テレビ番組「ウルトラセブン(1968年)」の最終回のBGMに使用されることになる伝説の録音です。
モーツァルトのシューマンの大曲を最後の二年間で録音することができたのは、アメリカから届いた新薬のおかげでした。
リパッティはアンセルメ&スイス・ロマンド管弦楽団ともシューマンを1950年2月22日に演奏。
実はこちらの方が演奏内容は表現の深みにおいてスタジオ録音のカラヤン版よりも優れていますが、ライヴ録音のためにカラヤン版よりも音質が劣ります。
この演奏はリパッティの生涯最後の公の場における協奏曲演奏でした。
幻となってしまってレパートリー
しかしながら、衰え過ぎた肉体では、これまで得意にしてきたスタミナを極度に要求する難易度の高い作品の演奏はもはや敵わないのでした。
以下のような得意曲は録音できなかったのでした。
ブゾーニ・バッハ「トッカータハ長調」(前回紹介しました)
シューマンの「交響的練習曲作品13」(超絶技巧曲)
バルトークのピアノ協奏曲第三番(超絶技巧曲)
ショパンの二つの協奏曲(音質の悪いライヴ録音あり)
ラヴェルのト長調協奏曲(愛奏曲)
モーツァルトのニ短調協奏曲 K.466(愛奏曲)
ベートーヴェンのワルトシュタイン・ソナタ作品53(ベートーヴェンは自分には不適正だと信じていたリパッティが、唯一演奏会で何度も演奏したソナタ。録音は予定されていましたが、もはや録音することはできないのでした。どんなワルトシュタインソナタをリパッティは奏でたのでしょうか。録音することができなかったことがあまりにも残念です)
ゆえに、後世のために遺す録音として選ばれた演奏曲目は、リパッティの体力を消耗させない、比較的演奏難易度の高くない曲目があえて選ばれて、演奏の主眼は、いかに表現するかに注がれるのでした。
リパッティは自分が若くして死んでゆくことを意識して、死を覚悟しながら、死の直前の数年の最後のスタジオ録音に臨んだのでした。
ここにリパッティの遺産の秘密があります。
まるで31歳で最晩年を迎えた、1828年のフランツ・シューベルトのよう。シューベルトは自分の命が長くないことを自覚していました。
冬の旅、白鳥の歌、弦楽五重奏曲ハ長調、ピアノソナタ三曲、三つのピアノ小品、連弾ピアノのための幻想曲ヘ短調など、死への深いまなざしが注がれた奇跡の作品群が作曲された年が1828年。
モーツァルトの1791年に匹敵する奇跡の年です。
リパッティの1950年もまた、奇跡の年なのでした。
リパッティの「高貴な」演奏の秘密
リパッティの1997年の評伝は、他の演奏家たちとリパッティをまったく別格の演奏家に位置付ける要因として、次の三点を紹介しています。
若すぎる最晩年を迎えていたリパッティはジュネーヴ音楽院の教授として、後進の音楽家のために、演奏論を書き残こそうとしていたのですが、やはり未完に終わります。
演奏論の草稿は友人宛の手紙として書かれました。
そこには演奏解釈のための基本となるべき、彼自身が信念として信じていた<演奏法則 Laws >が次のように、リパッティ自身の言葉としてまとめられています。
<1>リズムの正確さ
まず第一に、リパッティは後進に対して、リズムをしっかりと学びなさいと言います。
ただ一行だけ、ソルフェージュを徹底的に勉強せよと。
ソルフェージュは音階練習のこと。
美しい音階を奏でられること歌えることは基本中の基本。
音楽でも何であれ、基本が大事。
英語では solmization。
日本では音大受験のための声楽用ソルフェージュがよく知られていますね。
人間メトロノームと揶揄された、インテンポのリズムにひたすらこだわった、トスカニーニにさえ賞賛されたリパッティのリズム感は素晴らしいものです。
ルバートしても決してテンポが崩れない鉄壁のリズム感をリパッティは天性の才能として備えていました。
ルバートはメロディ内の音符の長さを自由に変えることですが、これについては次回解説します。
凡人がどんなに努力しても獲得できそうにないメトロノーム的な正確さにもかかわらず、杓子定規で機械的で単調な演奏に陥ることがなかったのは、リパッティが生まれ持っていた天賦の才によるもの。
メロディが揺れているのにテンポが崩れない、リパッティのルバートはその証です(ショパンのワルツやソナタの録音などに顕著)。
聴き手をいまだに魅了してやまない彼の演奏のリズム感の素晴らしさは真似できるものではありませんが、音楽の基本三要素の中で最も大切なのはリズム。
このことをリパッティは第一に指摘しているのです (pp.138-139)。
<2>弱拍のアクセントの強調
わたしにとっては、まさに目から鱗な言葉でした!
今の今まで何十年も音楽を学び勉強しながらも、ここまで弱拍の大切さを説いた文章に出会ったことも、誰かに教えてもらったこともありませんでした。
これだけでもリパッティの評伝を読んで本当に良かったと思えます。
拍子のある西洋音楽というのは必ず、
という具合に四拍子や三拍子の最初のビートを強くすることで、繰り返される拍子に特徴をつけるのですが(アクセント=強拍がないと、何拍子なのかわからなくなってしまいます)リパッティは弱拍こそが音楽の根幹であると主張。
ベートーヴェンなどの楽譜を見ると、スフォルツァンド(sf)などという特定の音を強調する音楽表現記号が頻発して、シューベルトやショパンでも音を強調させるためのアクセント記号(<)が音符の上に置かれます。
音楽演奏では、誰もがどこを強く弾くかを意識するわけですが、リパッティは、強い拍とは何も書かれていない弱い拍を導くためのものだと主張。
飛び込み板(Diving Board)とは良い比喩ですね。
水泳の飛び込みのためのよくしなる板を踏み込むように、強拍で弾みをつけて、弱拍を強調する。
弱音を表現するための強拍のアクセントを鳴らせというのです。
常識とは全く逆の発想。
弱拍を作って強さを表現するのではなく、強拍を作って弱さを表現せよと。
弱い音は、楽譜上で特に強調されるときにはピアノ、ピアニシモ (p. pp.
ppp.) などと書かれますが、何も書かれていない弱い拍こそ特に意識せよ!
確かにクラシック音楽を聴いていて、最も感動する、胸を打つ音は弱音なのです。
音楽表現の芸術であるクラシック音楽の醍醐味のひとつは、見事なピアニシモの表現を聴くこと。
ベートーヴェンやモーツァルトの音楽を聴いて最も感動する場面は、大きな音が鳴らされた後に唐突に鳴る静かな音。
つまり、リパッティの感動的な演奏の秘密の一端は、弱音で弾けと書かれてはいない、普通の拍の中の弱拍の弱音的な扱い方のすばらしさにあるのです。
弱音で思い出すのは、ベートーヴェンがラテン語でスービト・ピアノ subito piano と呼ばれるクレッシェンドの頂点で急にピアニシモに転じる表現を多用したこと。
騒々しい音のあとの突然の静けさほどに印象的なものはないからです。
評伝には書かれていませんが、リパッティの言葉は、リパッティが得意としていたという、ワルトシュタインソナタに頻発する、強音のあとに突然登場する弱音を思い起こさせます。
でもリパッティの主張しているのは、スービト・ピアノではない普通の弱拍の取り扱い方。
弱拍が強調されると、自然と次に続く強拍が息づいて、アップダウン・アップダウンという流れがより明確になり、リパッティの遺した全ての演奏録音で感じることができる、あの比類ないリズム感のすばらしさが生まれるのでした。
評伝では、モーツァルト、シューマン、ショパン、ラヴェルなどの録音が引用されていて、弱拍の強調の具体例を詳細に読むことができます。
もちろん弱拍と強弱の理屈は、拍子を超えた長いフレーズにおいても適応されます。
ペダルの使用法が弱拍の強調に深くかかわっても来ますが、専門的に過ぎるのでここでは割愛。
リパッティ演奏の別の特徴として、大変に息の長いクレッシェンドやデクレッシェンドを見事に弾き通すことですが(バッハのシチリアーノの後半など)徹底した弱音表現へのこだわりがあってこそ可能だったのだと、リパッティのカンタービレのすばらしさの謎が氷解する思いです。
弱音・弱拍に注目して、リパッティの録音を聴きなおしてみてください。新しい発見がきっとありますよ。
<3>別の演奏表現の可能性の探求
演奏表現が一本調子にならないように戒めている文章ですね。
ピアノという楽器は、鍵盤の鍵を誰が押しても叩いても音が鳴りますが、フルートの音を吹いて鳴らしたり、ヴァイオリンの弓を引いて綺麗な音を作り出すのと同様に、ピアノを演奏して美しい音を作り出すのは至難の業です。
押し方、叩き方、打ち方を変えるだけで、深く響いたり、浅く軽薄に鳴ったり、キンキンと金切り声を上げたり、ピアノの音は表情を変えるのです。
ピアノの音作りは、どの音も同じように音を出してはいけません。
腕の角度を変えたり、指を丸めて指先で打鍵したり、指の腹の部分で押して平べったい音を出したりと、ピアノの音はいくらでも変幻します。
ある音における正しい打鍵が別の場面では正しいとは限らない。
この点についても、評伝ではさらに専門的な考察を披露してくれますが、やはり専門的に過ぎるので割愛します。
以上、評伝における演奏解釈の章(第五章)の抜粋引用でした。
わたしとしては永久保存版として座右の書にしておきたいほどに貴重なものに思えます。
リパッティの評伝のような演奏家を深く知るための由緒正しい本(オンラインではない紙の本)を紐解くことはとても大事ですね。
この本を手に取って精読して本当に良かったです。
第四のアドバイス:親友ヤニグロとの共演
評伝はリパッティの演奏解釈のための三つの言葉を解説していましたが、わたしがもうひとつ付け加えるとすれば、音楽家は切磋琢磨せよということです。
リパッティの非正規録音に面白いものがあります。
バッハがヴィオラ・ダ・ガンバのために作曲した、三つのソナタの中の一楽章です。
この曲は、現在ではモダン楽器の場合、チェロによって演奏されますが、そのうちのニ長調の第三楽章アンダンテを、アントニオ・ヤニグロ (1918-1989) と共演したライヴ録音があるのです。
1947年の録音。
YouTubeにはヴァイオリンソナタBVW1003と表記されていますが、これは誤りで、正しくはチェロソナタ(ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタニ長調 BVW1028)です。
後に世界一のチェリストと呼ばれるようになるヤニグロは、リパッティとともにパリのエコール・ノルマルで学んだ同志でした。
学生時代の二人は親友として知られていました。
評伝においても、彼の名は手紙の中に数回出てきます。
ヤニグロの豊かで美しいチェロに寄り添うリパッティの伴奏は控えめながら、見事なリズムセクションの役割を果たしています。
基本的に和音しか弾かないのですが、それでも微妙な強弱表現があることがリパッティらしい。
「ウォルター・レッグによる試し録り」ということですので、正規録音ではないのですが、リパッティが長生きしていれば、きっとヤニグロと一緒に素晴らしいバッハのチェロソナタ集を録音してくれたのでしょうね。
リパッティの死後、ヤニグロは1950年代から1960年代にかけて、西側世界最高のチェリストと讃えられて(ソ連邦のロストロポーヴィチはまだ知られていませんでした)、リパッティに通じるような「高貴さ」を感じさせる素晴らしい名録音を後世に遺すことになります。
超絶技巧で超美音を鳴らすロストロポーヴィチ (1927-2007) や、ほとばしる熱情の塊のようなデュ・プレ (1945-1987) とは異なる、いぶし銀のような渋い音色を響かせるチェリストです。
ヤニグロとの学生時代の交流や、前述のような数多くの名音楽家との出会い。それらの貴重な人生体験がディヌ・リパッティを育てたのですね。
が、よい音楽家になるために本当に大切なのだと思わずにはいられません。
リパッティの音楽は、彼一人の天性の才能のみによって育まれたのではなく、エネスコ、フィッシャー、ヤニグロ、バックハウスなどといった人たちとともに培われたのだなと、評伝を読みながら、心からそう思うのでした。
ヤニグロとの試し録りには、他にもフォーレの「夢のあとに」なども残されています。
リパッティの生涯に想いを馳せると、なんとも感慨深い、示唆的な題名の音楽、そして演奏ですね。
聴き手を物思いに誘わずにはいられない、しみじみとしたチェロとピアノ。
これが本番ではない、テスト録音だとは。
今回紹介した、演奏の秘密を紐解くリパッティ自身の言葉を理解したうえで、次回は本題であるリパッティのパルティータ第一番を聴いてみましょう。死の年の1950年7月の録音。
そして最後のブザンソン演奏会(1950年9月)について。
ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。