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ピアノのバッハ 16: トッカータハ長調とディヌ・リパッティ

ここしばらく、夭折したディヌ・リパッティ(1917-1950) というピアニストの伝記をゆっくりと読み進めています。

Published in 31 December 1996

リパッティの生まれ故郷のルーマニアの音楽研究者(ブダペスト音楽院の教授二人)によって書かれた本格的な評伝。

英語で書かれた唯一の伝記のようです。邦訳はなし。

1997年(1996年12月)の出版。

日本では本書出版十年後の2007年にこの評伝を踏まえたらしい、日本語オリジナルのリパッティの伝記が描かれています。

畠山陸男氏の著書。

長らく絶版にもかかわらず、アマゾンではファンによる熱いコメントがいくつか寄せられています。

名ピアニスト・リパッティの日本での人気の高さを偲ばせますが、恐らく再版されることはありえなさそうなので、本書を求められる方は古本をお探しください。

私も読んでみたいのですが、なかなか入手は困難だと思われます。

ディヌ・リパッティというピアニスト

1950年のディヌ・リパッティの享年33歳というあまりにも早すぎる死は音楽愛好家の間では伝説になりました。

病死の数年前からリパッティの天賦の才にほれ込んだEMIの辣腕プロデューサー・ウォルター・レッグ(Walter Legge 1906-1979: 名歌手シュヴァルツコップの夫君)の英断によって、病魔と闘うリパッティのもとに訪れた束の間の小康状態の時間を利用して、リパッティの最晩年に、今でも伝説としてクラシック音楽愛好家の間で知られる数々の名演が後世に遺されることになったのでした。

最晩年といっても二十代後期から三十代前半のこと。まるで同じように夭折した大作曲家フランツ・シューベルトのよう。

EMIクラシック録音部門の辣腕プロデューサーであったウォルター・レッグは生涯にわたって、EMIレーベルに二十世紀中期の欧州の名演奏家たちの演奏の録音現場に立ち会ったというすごい経歴の人なのですが、生涯に出会った最高の演奏家は誰だったかと晩年に問われて、

  • 細君の名ソプラノ・シュヴァルツコップでも

  • ロンドンフィルの超大物指揮者クレンペラーでも

  • のちにクラシック音楽界の帝王と呼ばれるようになるカラヤンでも

  • 同じく夭折した不世出のホルンのヴィルチュオーソのデニス・ブレインでもなく

ディヌ・リパッティ…

とただ一言答えて、目に涙を浮かべたのだそうです。

深い友情に結ばれていた三人
左からディヌ・リパッティ
エリザベト・シュヴァルツコップ
ウォルター・レッグ

リパッティが残したEMI録音はすべて傾聴に値するものです。

モーツァルト、ショパン、ラヴェル、ブラームス、バッハ、スカルラッティ、シューベルト、エネスコ、リスト、シューマンなどの伝説的録音の数々。

1940年代における発展途上の録音技術の限界にも関わらず、完全にピアノの音をとらえきれていない録音の中からも、唯一無比の清廉さを漂わせるリパッティのピアノの歌を確かに聴くことができます。

最新のAI復刻による音は、1990年代、2000年代に発売されたCDの音質を遥かに凌駕するもの。2017年のリマスター。

コレクターの方には買い替えをお勧めします。全く音が違います!

最新復刻盤は現代においても現代人の良く肥えた耳にも十分に鑑賞に耐え得るものです。

音楽の浮遊感どころか、高貴ささえも漂わせる、無駄な力が何も加えられていない、理想的ともいえる、誰も真似しえない端正なタッチ。

何もしていないようで、他のどんな名手とも異なる演奏の音楽的完成度。

リパッティの演奏を聴いていると、ヨハン・セバスティアン・バッハが残した、あまりにも有名な言葉を思い出します。

バッハの言葉

楽器を演奏するのは容易なことです。
やるべきことは正しい鍵を正しいタイミングで触れれば
楽器はひとりでに演奏してくれますよ

バッハの鍵盤音楽があまりにも見事なので、

どうしてあなたはこれほどに素晴らしい演奏が出来るのか?

と問われて、バッハは謙虚にこう答えたのだとか。

確かに全くその通りなのですが(苦笑)、正しい音を美しく完璧なタイミングで正しい力量を込めて楽器を奏でることは至難の業

完璧なリズム感に裏付けらえた舞うような拍子感覚、完璧な指先の鍵盤演奏技術、両手両足体重移動を完璧に駆使することのできる身体能力がないと不可能なこと。

あらゆる音楽演奏は全身運動です。

ですので、衰えてゆく肉体に鞭打って鍵盤に向かったリパッティは、音楽演奏に必要最小限な力だけを用いてピアノを奏でていたのでしょう。

それ以上の力をこめようにも、もはやそうした力は残されていなかったのです。

鍵盤に触れる手の完璧な脱力が奇跡的なリパッティの演奏を可能にしたのでした。

リパッティの場合、病魔に侵された肉体ゆえに、演奏にとって邪魔になる無駄な力がすべて削ぎ落されれ、何人も真似することのできない奇跡の演奏が生まれたのだと思います。

評伝には次のように書かれていました。

以上の私の考えを完全に裏付けるものであることに納得しました。

原因不明の肉体を蝕む病状がどうしても改善しない1945年の終わり:

… The idea of having an incurable illness began to enter his mind. When playing the piano his movement became more deliberate and economical. No one suspected that this was in order to mininize the pain caused by the pressure of the mass of swollen glands in his arms, and no one imagined that the beautiful tones, precision and subtleties of his interpretations were the result of such great effort.  (p.109)

不治の病を抱えているという考えが
彼の頭の中をよぎり始めた。
ピアノを弾いているときの
彼の動きは考え抜かれた無駄のないものとなった
こうした演奏の変化が彼の腕の膨れ上がった
リンパ腺による痛みを最小限にせんがためだとは
誰も思いもしなかった。
美しい響き、演奏解釈の正確さや巧妙さが
そのような大変な努力の結果であるとは想像もしなかった

リパッティ生来の音楽的な高貴さは、演奏するための動作が望まずながらも極限まで研ぎ澄まされたがために、更なる高みへと登っていったのでした。

無刀の境地

しかしながら、リパッティの演奏には鬼気迫る死を直前にした人の悲壮感はなく、どんなに苦しい中でも心に天国を持っていたのがディヌ・リパッティでした。

日本の剣の達人も最後には無刀の境地にたどり着く。

刀を振るのに力なんていらない。

わたしは趣味で毎日竹刀を振りますが、良い振りは左手にまったく力を入れないで刀の自重だけを使って腕の自然の形のままに振り下ろすような感じ。

この振りを極めるときっと無刀になる。

無駄な力がなくなると必要最低限の筋肉だけで剣を振り下ろせるようになる。

リパッティの演奏の秘密は、日本古来の無刀の境地に通じる演奏なのだと思います。

リパッティとエネスコ

評伝によると1917年、第一次世界大戦の混乱がいまだ収まらない世界にディヌ・リパッティは音楽家一家の長男として生まれました。

両親の音楽家つながりから、二十世紀ルーマニア最大の音楽家ジョルジュ・エネスコ (1881-1955) の薫陶を受けることができたことも幸運なことでした。

エネスコはディヌ・リパッティのGodfather、つまり名付け親なのです。

エネスコは 二十世紀前半の最大のヴァイオリニストの一人にして、有名な「ルーマニア狂詩曲」の作曲家。

1929年にエネスコがSP録音したバロック音楽のアルカンジェロ・コレッリ(1653‐1713)の名作「ラ・フォリア」は、戦前から世紀の名演として知られていた、クラシック音楽録音の世界遺産的な演奏。

最近のAI復刻において、さらに聴きやすい音になった音を愉しめることは、二十一世紀にクラシック音楽を聴いている我々にとってどれほどに幸運なことでしょうか。

二十一世紀初頭に数々の名復刻を世に送り出した日本のオーパス蔵の復刻CDの音も素晴らしいです。

ショーソンの詩曲においても類まれなる
ヴァイオリンの美音とロマンティックな解釈を
堪能できます。

ラ・フォリアは、バッハ (1685-1750) のシャコンヌのように、全てのヴァイオリニストが愛するヴァイオリン名曲中の名曲。

名付け親エネスコに愛されたリパッティは、音楽演奏家としては神童として14歳でショパンのピアノ協奏曲ホ短調をプロのオーケストラと演奏。

17歳で臨んだウィーンのピアノコンクールでは、あまりに若すぎるという理由から実力では一位の成績だったにも関わらず、未来がある若すぎるリパッティは二位に甘んじるべき!という審査員の意見から二位入賞(一位になった人はコンクール出演の年齢制限ぎりぎりの30歳だったので)。

結果に不満を表明して審査員を辞退した名教師・名演奏家アルフレッド・コルトーはリパッティをパリに招いて、リパッティはコルトーの門下生になります。

作曲は交響詩「魔法使いの弟子」で有名な、当時のフランスで最も優れた作曲の名教師といわれたポール・デュカスに師事。

フランスの首都パリへの移住後は国際政治が迷走する欧州にて、数多くの演奏活動を行うのですが、評伝の中でリパッティがスウェーデンのストックホルムにおいて行った演奏会の新聞評がとても興味深い。

トッカータハ長調 BWV.564

それはブゾーニ編曲のバッハ・トッカータ・ハ長調とショパンのロ短調ソナタという大曲二曲のプログラム。

あるコンサートレビューは次のようにリパッティのピアニズムを絶賛。

… His pianism displays unusual clarity and , at the same time, great sensitivity. Indeed, I have never heard the Sonata played so nobly and with such fine intelligence …

彼のピアニズムは尋常ではない明晰さと同時に
大変な情感を表現したのだった
本当にわたしは(ショパンの)ソナタが
こんなにも高貴に優れた知性をもって
演奏されるのを聴いたことがない

Noble, Nobiliy(高貴に、高貴さ)はリパッティの演奏を表現するときの決まり文句のようなものとなるのですが、不治の病の発病前からこの言葉はリパッティのコンサート評に何度も現れた言葉でした。

高貴さとは、哲学者ニーチェが芸術的関興にはアポロ的とディオニュソス的の二種類あるといったうちのアポロ的な性質。

演奏から興奮や熱狂を感じさせるのではなく、偉大な芸術の前に大自然の前にひれ伏して畏敬の念を感じるような感動がアポロ的な高貴さ。

リパッティはそういう芸術を求めて表現しようとした演奏家だったのです。

しかしながら、同じコンサートへの別の評論では、リパッティの演奏に不満は述べないものの、選曲に対して次のような苦言が述べられていたのでした。

ブゾーニ編曲のバッハの音楽を演奏したことに対して:

… I ask myself what reason can induce some pianists to include such works in their programme. This is not done from love of Bach but of their own talent…

わたしはどんな理由がピアニストたちに
このような作品をプログラムに組ませるのであろうかと自問した
これはバッハへの敬愛からではなく
自分の才能の誇示のためであると…

ブゾーニ編曲のバッハは、1940年代においても、バッハらしさを損ねてバッハを超絶技巧を披露するための改悪であるとみなされていたのでした。

バッハをピアノを演奏する是非はもう百年も問い続けられているのです。

わたしがいまもこうして「ピアノのバッハ」と題した投稿を続けているゆえんでもあります。

ブゾーニ編曲による最も有名なバッハ作品は、今もなおピアニストの間では高い人気を誇る「トッカータとフーガ・ニ短調」ですが、ブゾーニ版は全く非バッハ的なアレンジです(ピアノ音楽としてはとても格好いいのだけれども)。

バッハ原曲は「トッカータ、アダージョ、フーガハ長調」なのですが、ブゾーニ版は「前奏曲、間奏曲、フーガ」という副題で「トッカータ・ハ長調」として知られています。

いずれにせよ、私としてはバッハのオルガン音楽のピアノ編曲版(超絶技巧)をリパッティが得意にしていたことは興味深い。

オルガン曲のピアノへのアレンジは、足鍵盤の音符も二段の鍵盤楽譜に書き込まねばならなくなるので、音符はあまりにも多くなり、演奏は困難を極める結果になるわけなのです。

ですが、それだけに腕自慢の演奏家が技巧を誇示するにはもってこい。

さらに演奏時間はノンストップで16分もかかるという長大な音楽。プロならば誰もが弾ける音楽ではありません。

高貴さを漂わせる演奏で知られるリパッティが、ヴィルトゥオーソ要素がふんだんに詰まったブゾーニ編曲のバッハの音楽をしばしば演奏会で取り上げていたのでした。

この曲はヴィルトゥオーソとして知られるホロヴィッツ (1903-1989) の得意曲。

いまでは超絶技能の、いわゆるディオニュソス的なホロヴィッツとアポロ的なリパッティの親近性など思いもつかないことなのですが、ピアニストの先輩ホロヴィッツはリパッティよりも14歳年上なので、一昔前に前にデビューした大人気ピアニストと新進ピアニスト・リパッティはしばしば比べられていたのでした。

Vladimir Horowitz
From Wikipedia

おかげで若いリパッティは「第二のホロヴィッツ」としてデビュー当初は知られていて、ピアノ演奏の師も当初は「第二のホロヴィッツ」として売り出そうとしたのでしたが、全く演奏スタイルの異なる二人なので、演奏を聴いた人たちはこのプロデュースに対してコルトーを非難したのだとか。

なかなか面白い。

リパッティが得意曲にして何度もプログラムに組んだこの曲をどう演奏したのか、興味深いところです。

ここではブゾーニ版バッハはホロヴイッツの肉声付きの演奏をどうぞ。

ホロヴィッツが得意とした大轟音をフォルティシモで何度も鳴らす機会が現れるピアノ曲としては大変な音楽

繊細なピアニシモとの対比が素晴らしい。ホロヴィッツもまた、リパッティとは全く別の次元の大天才です。

中間部(8分ほどから)のアダージョ(ブゾーニ版では第二部間奏曲と題されています)の内省的な深みが胸に沁み入ります。

「ピアノのバッハ」における最も感動的な音楽のひとつ。

ブゾーニはバッハの音楽の本質は損ねてはいないのです。これほどにバッハらしさを堪能させてくれるのですから。

もちろんリパッティ録音は残されていませんが、若いリパッティのピアニズムはホロヴィッツのそれに通じるものだったのでしょうか。

リパッティによるトッカータの即興演奏(練習?)の録音が45秒だけ残されています。ひどい騒音だらけの録音ですが、リパッティらしい生き生きとした音楽の躍動をこの拙い録音からも感じることができます。

リパッティがこの曲を愛していたという事実の記録にはなるのでは。1936年の録音。

しかしながら、スウェーデン公演からわずか十年の後の最晩年には、このように大変にスタミナを要求する難曲を晩年のリパッティはもはや弾き通すことはできないのでした。

オルガン演奏による原曲はこちら。

ピアノ盤と聞き比べると趣がだいぶん違う曲に聞こえます。

原曲はバッハらしい天上から鳴り響いてくるかのような、おおらかで雄大なオルガン音楽の傑作です。

1947年のピアノ協奏曲第一番

最後におまけ、最晩年のリパッティのピアニズムを偲ぶ演奏として、1947年のバッハのピアノ協奏曲第一番ニ短調(チェンバロ協奏曲)の録音をどうぞ。伴奏はベイヌム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団。

病床にあったリパッティが小康状態を得るとコンサートに出演して、また病床に就くという生活を繰り返していたことの録音。

いつまでも語り継いでゆきたいリパッティにしかなしえなかった奇跡的な名演です。

音質の貧しさにも関わらず、左手の強靭さとリズムの躍動感が筆舌に尽くしがたい。

有名曲なので何度かコンサートでこの曲を聴いたこともあり、録音でも何度もいろんな名手の演奏を聴いている曲なのですが、誰もリパッティのピアノの雄弁さには及ばなかったし、これからも誰も及ぶことがないとわたしは個人的に思うのです。

個性的なグールドの演奏は全く異質の演奏としてすごいのですが、聴くたびに感動を覚えるのはリパッティの録音です。

一切の無駄のない、無刀の境地のような演奏です。


次回はバッハが生前に出版したクラヴィア練習曲集第三巻に収録された、バッハの鍵盤音楽作品の中で最も不遇な「デュエット」BWV802-805 について。

リパッティのお話の続きはまたその次に。


ほんの小さなサポートでも、とても嬉しいです。わたしにとって遠い異国からの励ましほどに嬉しいものはないのですから。