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阿南でコンパクトシティは、なぜダメか

FBより。
FBより。※ 公人につき名前を隠していません。

 コンパクトシティ論や ”選択と集中” 論は、阿南市には馴染まない。

 理由は単純だ。
 現代の阿南市は、既存の中心とは程遠い、郊外が稼いでいるからだ。

 富岡中心モデルは、市が発足した半世紀以上前の状況を前提にしたものだ。当時は富岡の産業が幅を利かせ、声が大きかったから富岡だったに過ぎない。21世紀・令和時代では状況が大きく異なっている。もしもLEDの成功がなく阿南がまだ、富岡の製紙産業全盛の状況であったならば、富岡集約論はまだ理解できなくもない。

 逆に、阿南のコンパクトシティ論者に聞きたい。郊外がいくら努力して大企業を育て上げても、ろくに還元しなくてもよく、ひとたび敷かれたレールは堅持すべきで、市の中心の座を適宜見直す必要もなく、美味しいところをいただく繁栄の中心も未来永劫、絶対君主的に富岡地区であるべきだというのか? と。

 そんな努力に報いない考え方の為政者らが自治体を動かし学校を所管し、人を教育しているなど、末恐ろしい。

 阿南は郊外が稼いでいる為、 中心の成長が郊外の存続につながるのだとするトリクルダウンみたいな理屈も、阿南では成り立たない。
 かりに富岡などの沿岸部を切り離し、自治体を分割しても、稼ぎ頭となっている内陸はやっていけるし、むしろより発展するだろう。

 阿南でコンパクトシティ論を唱えるということは、富岡地区の既得権を維持したいだけが本音としか思えない。

 当方は、”均衡ある発展を” と言いたいのではない。
 阿南市は、日亜を作り育て努力した地区に繁栄をお返しする義務がある。

 かりに集約拠点を設けるにしても、富岡であるべきではない。たんに既に人口や街が積み重なってるから、とか惰性の追認みたいな まちづくりはおかしい。

 ”みんなが納得できるまちづくりを” と上の方は書かれているが、それは考えなくてよいだろう。多数決にすると、既存の人口が多い地区が勝つに決まっているからだ。それでは変革はできない。
 稼いでいるのは郊外の地区である。一番重要な観点は、いかに郊外に繁栄を還元するかだ。ここで民主主義は不要だ。

 仮に、そんなに富岡が中心でいたいのなら、阿南市を分割し、富岡に付いていきたい地区だけで独立していただくべきだろう。そして、独立後の富岡側の自治体においては「光のまち」の看板も税収も使ってはならない。

 なぜ従来の市街地を栄えさせるために、貢献した地区が犠牲にならないといけない? 阿南市内陸部は沿岸部の植民地なのか? 従来の市街地を延命させるがために周辺部が付き合う筋合いはない。

 全国の普遍的なコンパクトシティ論をそのまま阿南市にあてはめようとされる方は、この市の経緯にご留意されたい。


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