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スポーツで感動“すべき”なのか?

ワールドベースボールクラシック(WBC)の余韻がまだ残っているうちにこの記事を書き始めたのですが、すっかりプロ野球が開幕しても書き終わらず…。
WBC決勝はゲームセットの瞬間だけだけどテレビで見ることができて、優勝の瞬間は私もテンションが上がりました。こういう感動が世の中に広がる一方で、心を動かされなかった人や興味を持たない人が肩身の狭い思いをしがちなのはなぜなのか。これが今回のテーマを書くきっかけです。
そもそもスポーツでの感動って何なのか? という根本を、個人的な考えを整理しながら掘り下げてみようと思います。

感動は“受け身”である

そもそも、である。「今から感動しまーす‼」って言って感動する人なんていないのです。感動は何かしらの刺激を受けた結果起こる感情。感動するかしないかは受け手(主に観客)に委ねられています。(なので、個人的には「感動してもらう」とか「感動を作る」みたいな表現には違和感があります)
そりゃ、「あんな感動的なシーンをなんで見てないの」とか言われても興味のない人にとってはどうしようもない迷惑な話ですよね。

アスリートにできるのは、感動の土台作りまで

感動するか否かは受け手の問題なので、アスリートが直接感動を作ることはできないわけです。ただ、言い方を変えると“アスリートは感動の出発点にいる”と言えます。
では、どんなアスリートが感動を起こせるのか。その要素は、アスリートの人間としての魅力に尽きると思います。ただ強い、上手いだけでは注目こそされど魅力にはつながりません。人としての模範的な姿勢もそうですが、人間味のあるキャラクターなどが魅力につながるものです。ここがスポーツでの感動の土台だと思っています。そして、アスリートが直接どうこうできるのはこの土台作りまで、です。アスリートでも感動を強要することはできない

感動の場面は、社会に求めるものの反映

土台があったとして、どういう場面でも人の心が動く、というわけでもありません。感動の場面というと勝利の場面が浮かびやすいでしょうが、案外、勝敗と関係ないところに感動の場面があるものです。
冒頭にWBCの話を出したので例に出すと、多くの人の心に残ったのがチェコ代表ではないでしょうか。彼らの大舞台でも純粋に野球を楽しむ姿、真剣にプレーに望む姿勢、相手への敬意ある態度、試合外での友好的な振る舞い、などなど…。心を動かされた場面が数多くあったかと思います。そして、彼らは我々を感動させようとは1mmも思っていなかった(はず)です。
これらの多くの人が感動した場面は、「こんな人になりたい」とか「こういう関係性は理想的だよね」みたいな場面だったと思います。これが、ベタな表現をすれば“スポーツの価値”というやつです。そして、

スポーツの価値は“皆が社会に求めるもの”につながっている

と私は解釈しています。スポーツの中に社会的にも意義があるものが見えた時にスポーツの価値が大きな力になるのだと思います。

感動は、人それぞれ

私自身、スポーツには多くの素晴らしい要素が詰まっていると思っています。と同時に、元々はスポーツが苦手だったのもあって、スポーツにネガティブな印象を持つよなぁ…って感覚も理解できます(この辺りは過去記事もご覧ください)。
自分の経験の中では、限られた尺度(例えば、勝敗や能力の有無)だけで自分のスポーツを評価されていたような気がしています。そのピンポイントな価値観に馴染めなければスポーツが好きにはならない。恐らく、スポーツにネガティブな人にとっては、(善悪とか正誤の問題ではなく)スポーツの価値の押し付け自体がしんどい状態が出来上がってしまっているのだと感じています。
ピンポイントな価値観の押し付けは、スポーツを見る人同士でも起こっているでしょう。本来スポーツの価値は多様なものなのに、まるで全員が同じ感動を受けなきゃいけないみたいな空気になってしまえば、そりゃ肩身の狭くなる人もいますよ。(今の社会に多様性は求められているものなのに…)

というわけで、興味のない人には、「そういう人もいるよね」ってぐらいだけ理解してもらえればいいんじゃないでしょうか(逆もまたしかり、です)。それぐらいの受け入れが多様性じゃないでしょうか。

感動を他者に求めてはいけません。自分の気持ちとして発信するだけで充分過ぎます。感動は人それぞれ、なのですから。


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