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タイタンの彼女 8/8

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 国道沿いの歩道を西に三十分も歩くと、辺りに見慣れない光景が広がり始める。勿論車の助手席からは何度も見た景色だけれど、実際に立って見る景色とはこうも違うのかと不思議に感じた。

 国道の他には田んぼと畑しか見えない開けた道は、ずっと真っ直ぐに続いていた。シロヤマは全く近付いてくる気配が無い。
 きっと辛くなるだろうと思う。帰りも歩いて帰れるのか、自信が無い。家に帰ったら、きっと両親に怒られるだろう。そんな不安が常に僕に纏わりついた。それでも一度歩みを始めた足は、中々止まろうとはしなかった。

 歩き始めてから、もう一時間は経っただろうか。時計を持っていないので正しい時間は分からない。辺りは既に真っ暗になっていた。

 僕を導くのは国道の街頭の光だけで、その外側は宇宙空間の様に深く黒かった。体中が熱く苦しい。ダンプカーやトラックのような大型車が僕の横を通り過ぎる度に、少しだけ風が吹いて気持ちが良かった。
 僕は後ろの景色を想像しながら、トラック来い、トラック来い、と心の中で呟いた。あまりにも暑苦しく邪魔だったので、眼鏡はポケットに仕舞った。肉眼で歩くのが難しい程視力が悪い訳でも無い。

 段々と時間の感覚が無くなり、僕は自分の少し先地面だけを見つめてひたすらに歩いた。僕を動かしているのは僕では無く、僕の足が勝手にやっている事の様に感じる。

 長い間周りの景色すら見ていない。

 シロヤマまであとどのくらいなのだろうか。
 溢れ出ていた汗も、かなり前からほとんど止まってしまった。耳の横をかすめる車が通り過ぎる音だけが、今僕が感じられる現実だった。

 余りにも近い場所を車が通ったように感じ、僕は危機感から正気を取り戻す。そして辺りの景色がこれまでと大きく違う事に気付いた。随分明るい場所を僕は歩いている。

 僕はいつの間にか、強い明かりに照らされたトンネルの中を歩いていた。トンネルの中には歩道は無いので車が近くを掠めていくのは当然だ。
 自分が歩いている場所が歩道かどうかの判別すら出来ていない状態だったのか。
 重い脚をもう一度振り絞り、入り口まで引き返す事にした。
 トンネルの入り口の脇には、シロヤマの山道を指し示す立て看板があった。
 確かに、辛かった。しかし無理では無かった。
 中学生の僕でもここまで歩いて来られた。

 何故無理だと突っぱねてしまったのだろう。

 僕は休まず、そのまま山道へ進む。足を止めてしまうと、もう二度と歩けなくなってしまう気がした。

 夜の山が危険だというのは、田舎に住んでいれば誰でも教えられる。何しろ辺りを照らす光は全く無く、足元に何が落ちているのかも分からない。方向を見失い崖に落ちたら、下手をすれば命に関わる。

 ここまで来たからには、僕は命を掛けて登るしか無かった。せめて懐中電灯くらいは持ってくるべきだったと反省したが、そんな気持ちが無かったからこそここまでこれたのだとも思う。

 一歩ずつ、ゆっくりと歩みを進める。足は何とか持ちそうだ。
 細い山道を明かりも無しに進む。辺りに見えるものは何もなく、音すらも殆どしなかった。
 不思議と怖いという感情は無い。これがランナーズハイというやつなのだろうか。

 静寂に包まれた夜の登山は、まるで暗く広い宇宙の中を一人で歩いているみたいだと僕は思った。

 僕は知り合いのタイタン人の事を思い出す。

 何故僕は彼女を他の誰よりも強く観測出来たのだろうか。彼女の名前が無い事を疑問に思って調べようと思ったからだろうか。

 今ではそれは違うと感じている。

 僕が彼女の事を最初に気に掛け始めた時の事はよく覚えている。その頃はヘルメットとボンベはまだ見えなかったけれど。

 ある春の日の放課後の事だった。僕は、借りた癖に結局読まなかった小説を、図書室に返しに行った。誰かの伝記小説だったのを覚えている。

 用事を済ませた僕は、自分の教室がある東棟の二階へ戻る。放課後、二年生の教室が並ぶ廊下は時間が止まったみたいに静かになる。ただその日は、タン、タン、と何かを叩く様なリズミカルな音だけが廊下中に響き渡っていた。それは僕の教室から聞こえて来る音だった。

 教室ではタイタンの彼女ががらんどうの教室の中、一人で黒板に何かを書いていた。
 何を書いていたのかは良く分からない。
 理解しがたいおかしな図形を書いては消して、彼女は一人で遊んでいた。僕は廊下で足を止めて彼女が何かしているのを暫く眺めていた。

 走ったり飛んだりしながらダイナミックに図形を描く彼女を目にしたその時から、僕にとって彼女は特別な存在になってしまった。

 何故なのかなんて、僕が聞きたい。

 僕にとって彼女は特別だった。だから気になって調べたのだ。

 彼女が言う事が本当であれば、僕が一番彼女をはっきり観測出来るのは当たり前だ。僕は他の誰よりも彼女を見ていたのだから。

 そして本当のところは何故、彼女が見えなくなったのかも分かっている。

 本当の彼女が今どこに居るのかは全く分からない。だけど彼女が突然見えなくなってしまった理由は分かる。
 僕はいつか必ず訪れる彼女との別れを感じていた。
 終わらない時間なんて存在しない。生きる次元がずれている彼女はいつか僕の前から姿を消す。
 それを考えたくなかったのだろう。

 彼女の話は聞けば聞くほど、僕とは遠い存在なのだと感じざるを得なかった。僕はいつからか、彼女を直視する事を拒んでしまっていた。

 それがいつか来る別れを、早めさせてしまったのだ。

 そして約束を果たすことも、交わすことも出来なくなってしまった。
 僕は彼女を、隣に立つ一人の人間として扱ってあげられなかった。どこか別の場所から来た、異質な存在として扱ってしまった。

 夕焼けの野球グラウンドで彼女が寂しそうな顔をした光景が、脳裏に焼き付いて離れない。

 彼女のあの表情こそが、僕が遠い昔に残した失敗そのものだ。

 突然辺りが明るくなったので、僕は自分が今、何をしていたのかを思い出した。そうか、シロヤマを登っていた。

 シロヤマの頂上には、高さ五メートル程のコンクリートで出来た小さな展望デッキがある。星を眺める人の為なのか、デッキのふもとに弱く光る蛍光灯があるだけで、その他に光は無い。それでも久しぶりに見た明かりに目が眩んでしまった。

 真っ暗闇にぽつんと光る蛍光灯の明かりは、ここはやはり地球なのだと僕に認識させた。

 蛍光灯の脇に小さな階段がある。僕はゆっくりと階段を一段ずつ登っていく。鉄製の階段は一段登るごとに、かつん、かつん、と音を鳴らす。僕は少し緊張しているみたいだった。

 階段を登り切ると空は急に高くなり、眼下に広がる東側の景色が目に飛び込んできた。暗く広い世界に細く弱い光の筋がシロヤマの麓までずっと続いている。
 僕はあの道をずっと歩いてきたのだけれど、今ではそれが現実的に感じられなかった。光の細い筋の先は、何百キロ、何千キロも離れて見える。僕の家がどの辺りにあるのかなんて、もう全く分からない。
 反対側を振り向く。
 そこには月明かりにほんの少しだけ照らされたセーラー服の女子が立っているのを、僕は見つけた。

 背中には圧縮メタンのボンベを背負って、頭には半球型のヘルメットを被っている。華奢な体には似合わない重たそうな装備だ。

 彼女は僕に背を向けて、西側のデッキの端に立っていた。

 僕は何故かそれを不思議だとは思えなかった。
 何となく、そんな気はしていた。僕が余りにシロヤマに行くのを渋ったからだろう。勝手に一人で来てしまったのだ。
 なんだ一人でも来れるじゃないかと、心の中で笑った。

 西側のデッキの端まで行くと隣町の夜景が一望出来た。
 その光景は凄まじかった。
 沢山の光の点が群れを成していて、一つ一つは点に見えない。宇宙の端に立って大きな銀河を眺めているような、そんな気分にすらなった。昔見た事がある筈だというのに初めて見る光景としか思えない。

 いつか彼女が言っていた様に、空星よりもこっちの方が確かに綺麗かもしれない。

 何歩か歩き、僕はタイタンの彼女の隣に立つ。
 僕が見ている彼女は残像で、実際にここに居る訳では無い。

 こんな事に何の意味も無いのかもしれない。
 それでも、遠い昔に交わさなければならなかった約束を。

「一緒に、タイタンガニを食べよう」

 隣に立つ彼女の表情は暗くて全く分からない。


 それでも何故か、彼女は笑っていると、今の僕にはそう思えた。



著/がるあん イラスト/ヨツベ

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