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過去から未来へ Vol.5 ~書籍『物語 日本のハンドボール』をもとに~

スポーツイベント・ハンドボール本誌で現在も連載中の「過去から未来へ」。日本のハンドボールの歩みを紹介した書籍『物語 日本のハンドボール』をもとに、ハンドボールの生い立ち、歴史に触れ、未来を切り開いていってほしいという願いをベースに、書籍に記された事象や時代背景をより掘り下げてお伝えする当連載を無料公開していく。今回は著者・杉山茂さんに、大きな時代のうねりにさらされた1930年代について語ってもらう。

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著者:杉山 茂(すぎやま・しげる)スポーツプロデューサー。
元NHKスポーツ報道センター長。慶應義塾大学卒。オリンピック、主要国際大会などのテレビ制作のかたわら、スポーツ評論の著述を手掛ける。近著に『物語 日本のハンドボール』

世界的な発展の流れの中で

――前回もお話しいただいたように、大谷武一さんが日本にハンドボールを伝えたのが1922(大正11)年のこと。そこから20年足らずの間に、世界、そして日本のハンドボールは大きく動いていきますね。

1928(昭和3)年には国際アマチュアハンドボール連盟(IAHF、現在のIHFの前身)が設立され、同時に11人制の国際ルールも施行されました。IAHFには1930(昭和5)年、日本陸上競技連盟が加盟手続きをしています。

翌31(昭和6)年には、バルセロナ(スペイン)での国際オリンピック委員会(IOC)総会で、36(昭和11)年のオリンピック開催地にベルリン(ドイツ)が決まりました。

その後、34(昭和9)年、アテネ(ギリシャ)でのIOC総会で、ハンドボール(男子11人制)の実施が承認されています。この年には7人制の国際ルールもまとめられました。

オリンピックでのハンドボールの実施を知った神戸の愛好者が、参加を夢見て動いた歴史があります。神戸在住のドイツ人などとハンドボールを楽しんでいた日本人ですね。

35(昭和10)年には、日本陸上競技連盟によって国際ルール(11人制)の草案も翻訳されています。

残念ながら、その熱意も実らず、ハンドボールそのものの知名度不足なども影響して、オリンピック参加は実現しませんでした。

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長年現場で取材を続けてきた著者だからこそ書けた、日本へのハンドボール伝来から現在までを追った力作。(杉山茂著、スポーツイベント・オンラインショップで発売中

――そうした流れの中で、1940(昭和15)年の東京オリンピック開催が決まるわけですね。

40年の東京オリンピックは、36年7月、ベルリン・オリンピック開幕前日に開かれたIOC総会で開催が決定されました。実施競技もベルリン大会と同じとされました。

けれども、国内でのハンドボールは、伝来からの学校体育の域を出ていないままです。

ベルリンのあと、東京オリンピック開催準備が進められる中で、ハンドボールの実施については浮き沈みを繰り返し、実施見送りのムードが濃い時期があったのも事実です。

37(昭和12)年、ワルシャワ(ポーランド)でのIOC総会で東京オリンピックの実施18競技が決まりましたが、ハンドボールは保留扱い。不採用と受け取られもしています。

厳しい状況の中、同年10月22日、東京で第1回関東選手権が開かれ、第1戦・慶應義塾大−日本体育会体操学校(日体大の前身)が国内初の公式試合として行なわれ、11月にも第1回全日本選手権が行なわれています。

年が明けた38(昭和13)年2月2日には日本送球協会(現・日本ハンドボール協会)が誕生。

その直後にはドイツで初の世界室内選手権(7月には11人制の第1回世界選手権も開催。いずれもドイツが優勝)が開かれています。

3月にはオリンピック強化候補選手の初合宿が行なわれ、そのあとに開かれたカイロ(エジプト)でのIOC総会では、東京でのハンドボール実施が正式に決まりました。

――日本のハンドボール界が難局を乗り越えながら、世界の発展の流れに乗り、懸命に東京へと突き進んでいこうとしていたことがうかがえます。

急テンポの発展とは別の局面で、37年夏ごろから戦雲がのぞき、日中戦争が激しさを増した38年7月15日、日本政府は東京オリンピックの返上を決定します。

日本ハンドボール協会初代会長・平沼亮三さんは、32(昭和7)年のロサンゼルス、36年のベルリン両オリンピックで日本選手団団長も務めるなど、スポーツ界全体のリーダーだったと同時に、政界、財界の名士でした。

平沼さんはじめ、当時の日本ハンドボール協会首脳は、戦局を受けてのオリンピック返上ムードが強まっていくのを感じていたはずですが、その流れの中でハンドボールの競技スポーツ化を推し進め、東京オリンピックへと向かっていました。

このあたりは、日本政治史とも絡めて、ハンドボールの歴史としては、とても興味深く、謎めいたテーマです。

1940年の東京オリンピック返上を研究、取材した人はたくさんいますが、いずれもハンドボールの運命には触れていません。

また、2020東京オリンピックに向けて東京都教育委員会が発刊した冊子にも1940東京返上が書かれていますが、実施予定競技の中に、ハンドボールの名はありませんでした。

それぐらい知られていなかった当時のハンドボールにスポットライトを当ててくれる人が出てきてほしいものです。

今月のキーワード
東京オリンピック強化候補選手


1938年3月16日から18日まで、神奈川県の慶應義塾大グランドで1940年東京オリンピック強化候補選手による初合宿が行なわれたが、参加27選手のうち3人はフルネームと所属、4人はすべてが不明のまま。そして、この合宿が最初で最後の集合となった。

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