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「がんばれ」、じゃなくて

 「魔法使いみたいだな」と個人的に思っている人がいる。自分のことがわからなくてモヤモヤすると、最近はその人に相談するようにしている。私は自分のことがいちばんわからない。どんな時にしあわせを感じるのか、なにが好きなのか。本当に、なにがあっても私は「それ」をしあわせだと感じられるのだろうか。「それ」を好きと言えるのだろうか。そういうふうに考え込んでしまう。

 こうやって迷いながらぽつぽつ話すから、私の言葉数は普段よりもかなり少なくなる。彼はその中から的確なものを拾い上げ、時に突っ込んだ質問を振り、時にもっと大きな枠で考えるように促し、断片的なキーワードをつなぎ合わせ、客観的に分析し、まとめあげてくれる。自分でも知らなかった自分に気づける。だから思うのだ。彼は魔法使いだと(彼は「ここまでの領域なら魔法使いじゃない」と言う。本当の魔法使いは、根拠なく「北に行けば良いことが起きるだろう」みたいなことをいうものらしい(笑))。

 さらに話をしていく中で、「自分のことがわからないのは、問いが足りないからじゃない?」とも言われ、本当にその通りだなぁと思った。自分に対する解像度が低いだけだよ。と。で、それはたぶん、インプットが足りないんだと。自分が「興味あるな」と思ったことにはどんどん足を突っ込んでみるといいよ、だって。でも私は「自分が興味のあるもの」がなにかもあんまりよくわからない。「本当に興味ある?」と聞かれると、どれも本当じゃない気がする。この感覚、なんなんだろう。迷宮入り事件か(笑)。

 まぁでも、彼と話していて自分のことを言い当てられて、数日間ずっとぴりぴりしていた自分はいなくなった。動物だったらずっと毛が逆立ちっぱなしだったんじゃないだろうかと思うくらい、本当にいらいらしていたのだ。自分のことがわかると、精神が凪ぐらしい。これは大きな発見だった。

 「ありがとうございました。がんばって、自分のことをもっと深掘りしてみます」。心からのお礼のつもりでこう言った私に、彼が返した言葉がとてもすてきだった。

 「『がんばる』って、思わなくていいよ。『がんばる』とか『がんばれ』とか、なんかいやじゃないですか。『一緒にがんばろうよ』が良いと思うんですよね。俺も人生迷うことあるし。一緒に、がんばろうよ」

 あぁ、なんか、ひとりじゃないんだなぁと思えた。これも魔法みたいだ。そして、私も同じことを思っていたことに気づく。「がんばれ」よりも、「一緒にがんばろう」が好きなこと。

 だって、「がんばれ」って無責任じゃないですか。みんながんばってるもの。「がんばれ」って言うと、その人のがんばりを認めていないみたいになっちゃうから。私も一方的に「がんばれ」って言われるのは好きじゃない。安易に「がんばれ」と言ってくる人を信用できない。「私ががんばってないとでも? なんも知らへんくせに」と思ってしまう(ひねくれてるよね(笑))。だから、私もだれかを応援する時は、なるべく「一緒にがんばろう」って言いたいと思っている。それか、陰ながら見守る。私がその人の支えになれるかどうかはわからんけど。

 がんばれない時があってもいい。それはだれに責められることでもない。がんばれる時にがんばったらいい。ついでに、一緒にがんばれる仲間がいたらうれしい。願わくば、だれかにとってのその「仲間」になりたい。私はそう思う。一緒にがんばろう。



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