致死率100%

 日本語の二字熟語の成り立ちには、いろんなパターンがある。例えば、「登山」なら下の漢字が上の漢字の目的語になっている。「場所」なら、同じような意味の漢字を列挙している。「黒髪」なら、上の漢字が下の漢字を修飾している。

 それでは、「生死」という熟語についてはどうだろうか?

 …

 シンキングタイムを与えるほどでもない問題だが、正解は”意味が逆の漢字を並立させている”である。


 生と死は、対立関係にある。命がこの世に現れた瞬間を生(Birth)と表し、命がこの世から消え去る瞬間を死(Death)と表す。「終始」という熟語の成り立ちが「生死」と同様であるように、命の始まりと終わりは必ずやってくる。生まれた命は、死ぬことを避けられない。

 勿論、人間という生物についてもこれは例外ではない。どんな人間も、いずれは死ぬ。生きている時間が長いか短いかは個体毎に寄っても、終わりの時はしっかりやってくる。人間の致死率は100%だ。

 でも、私はこの至極当然の事実をつい最近まで受け入れられなかった。人間の致死率は99.9999999999…%くらいだと思っていた。永遠に健康で生き続ける存在が、この世界にたった2人だけいると思っていた。

 それは、自分の両親である。

 周りの人が老いていき、自分がいつか死ぬことも理解している。しかし、私の両親は私が小学校低学年の物心ついた時の記憶から何も変わっていない。外見も中身も変わらない。だから、不死身なんじゃないかと本気で思っていた。

 けれど、確実に時は過ぎている。私がもう23歳なのだから、親ももう50を超えている。そして確実に身体の節々に影響が出始めている。目に見えているところに見えていないだけで、隠しているだけで、本当は以前よりずっと老いている。

 自分を育ててくれた親が次第に老いて弱っていきいずれその命を落とす様を見届けるのは、事故が起きない限り子供の宿命であるといえる。そして親もまた自分の親がいて、同じ光景を目の当たりにしてきた。子供というか、命あるもの、致死率100%である全生命体の運命だ。

 このところの私はGWの帰省を通じて母が昔患っていた病気のことを深く知るようになり、親の死について考えるようになった。兄弟姉妹ゼロの一人っ子なので、親がいなくなったら本当に1人っきりだ。今は病気も完治しているのに、得体の知れない拭えぬ不安に襲われた。YouTubeで家族を突然死で失った人の動画や親を早くに亡くした子供の動画をたくさん見漁った。身近な人がいなくなる体験記や、親が死んだらどんな手続きをするかが載ったHPも読みまくった。そして泣いた。そのくらい不安だった。必ずそれに直面する時が来ると、この年にして初めて認識したからだと思う。

 お世辞にも親孝行とは言えない子人生を送ってきた私だが、この気づきをきっかけに親との関わりを大切にしようと感じた。母を目の前にした母の日にも何もできなかった私は私自身を悔やんだ。
 これから先の人生は、自閉症まがいの手のかかる子供だった私をここまで育ててくれた親に、最大限の感謝を目に見える形で伝えていきたい。親がそこにいようとも、いなくても。



P.S.

 まだ肌寒かった時期に、就活の一環で東京に出向いた。田舎育ちで地方中枢都市の大学に通う私からして、東京はUrban Cityそのものだった。
 来年の春から、この街で働くことが決まっている。都会で働くのがイイ!と一辺倒に思っていた私だが、自分の性格を考えると案外田舎の地元に戻って、親の近くにいるという選択肢もアリなんじゃないか?なんて考え始めた。テレワーク次第だろうけど。
 人生設計において大きな柱である新卒就職先を大学生のうちに色々考えて決めるのは難しい。

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