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修学旅行の餞別で父親に巨大メカを渡された話


中学3年生の秋、京都への修学旅行があった。

当時は当然スマホなんて無くて、携帯電話(ちょうどスライド式が出始めて最先端と言われていた)を持っているのすら家がゆるめの超少数派で学年に1、2人だったし、そもそも中学校では「携帯電話」というものは存在しません、と言わんばかりにその存在を黙殺されていた。
「学校へ馬で登校してはいけません」という校則は、たぶん存在しない。それは、馬に乗ってよい、ということではなく、「普通馬を持っていない」というのが当然の共通認識だからだ。
つまり、当時の私の地元において、携帯電話はほとんど馬、なほどありえない存在だったのである。
だから、修学旅行のしおりにも携帯電話の「け」の字も出てこなかった。班ごとに分かれて自由行動する行程があったのだが、見知らぬ土地で迷った時のために連絡手段として各班の代表に渡されたのは「ポケベル」だった。

そんなわけで、写真を撮るにおいても、一番の手段は「写ルンです」だった。

馬・「携帯電話」に対し、「写ルンです」はチャリ並みにメジャーだった。

修学旅行のしおりの持ち物欄には、生徒手帳・着替え・保険証のコピー等に並んで、しっかり「写ルンです」と記されていて、教師陣の知名度も抜群だった。「カメラ」ではなく「写ルンです」と商品名を書いているところに、中学生の私は「写ルンです」への厚い信頼を感じた。なんてったって個人指名だ。カツオに中島、まる子に花ちゃん。そして、中学生に写ルンです。

修学旅行の相棒を公的にご指名頂いた私は意気揚々と家に帰り、ちょうどリビングでウクレレを掻き鳴らしていた父に、修学旅行へ行くので「写ルンです」が欲しい、と宣言した。
すると父は、ウクレレをぽろろん、と鳴らし、「ちょっと待っとれ」と言い残して書斎へ引っ込んだ。
私の胸に一抹の不安がよぎった。

写ルンですって、書斎に置く?

いや、父は未だに中学生の心を忘れておらず、未だに写ルンですでパシャパシャ自分の書斎を撮っているのかもしれない。そうやって心を落ち着かせた私の前に現れた父の手には、ソフトボール大の真っ黒なメカが乗っていた。目を疑った私に、父はその黒い塊を押し付けて、「キャメラや」と言い、再びウクレレの元へと帰っていった。

私の両手では飽き足らずはみ出しているメカを見た。「写ルンです」の5倍はある。重さは十倍はある。相棒どころか謎の中年太りのおじさんの如き機械を押し付けられた私は、父に猛烈に講義した。

しかし、父も譲らなかった。
「そのキャメラはオリンパスや」「写ルンですなんかよりよっぽどいい」「使い方も一回覚えれば簡単」「まずは絞りと焦点の合わせ方教えてやる」「めちゃかっこいい」「プロっぽい」「モテる」。

そのカメラがいかに素晴らしいかを熱弁されたが、当時中学生の私の心には全く響かなかった。だって、馬どころか学年で一人だけ謎のロボットに搭乗させられる瀬戸際である。

父には前科がある。

友達とジャスコへ遊びに行く日、ジーンズに巻くベルトが欲しい、と父にねだると、手のひらよりでっかいラインストーンで埋め尽くされたプーマのロゴのバックルがついた純白の極太ベルトを譲渡されたのだ。
こんなベルトを付けているのは、私の記憶では、エルヴィス・プレスリーかマイケル・ジャクソンぐらいだった。
しかし着けないと父が悲しそうな顔をするので、私はそのベルトをつけて遊びに行き、その日一日私のあだなは「プーベル」(プーマのベルトの略)になったのである。

あんな思いは、もうこりごりだ。

言い争いの末、母の「重いやろ」の一言で決着し、私のポケットには無事に写ルンですがやってきたのである。

そんなこんなでやっとの思いで手に入れた写ルンですだったが、修学旅行ではほとんど使われなかった。家から中学校までの通学路で、フィルムをほとんど使い果たしてしまったのである。
田んぼの脇に咲く花、自動販売機、精米所、中学校の隣のコンクリート工場、名も知らぬ草。毎日見ている風景をカメラのレンズ越しに見るのがあまりに面白くて、夢中で撮りまくったのだ。

結局修学旅行で撮影できたのは十枚ほどで、しかもうち五枚は様々な角度から写された金閣寺だった。たぶん構図にこだわって何回も撮ってしまったのだろうと思う。
残りの四枚は駅のホームで、当時仲の良かった男子が決めポーズをとっているところだった。ブロマイド風にポーズをこまめに変えている気遣いがニクい。
残りの一枚はタクシーの中だった。なぜ最後の一枚をタクシーで消費したのか。なぜ清水寺でも銀閣寺でも八坂神社でもなく、タクシーなのか。

というわけで、スーパーの一角にあるカメラ屋で現像したフィルムは、うちの近所の写真集with金閣寺with男子のブロマイドwithタクシーの仕上がりになっていた。

それを見た父は、「だから俺のオリンパスにしたらよかったんや」、と言い、母は「この子(※駅のホームの写真の男子)は写真より直接見たほうがかっこいいわ」というどうでもよい感想を漏らした。

そんなわけで京都の姿をほとんど写さなかった写真ではあるが、今となってはむしろ良かった。金閣寺は今もあるが、うちの近所は再開発が進み、ほとんどが住宅になり、私が写した風景は、もう写真の中にしか残っていないのである。だから家族で「修学旅行」のアルバムを見ては、懐かしの梅の木や田んぼを恋しがっている。

記憶は水で濡れたキャンパスに描く絵画のようなもので、時とともに滲んでゆく。やがて、絵はぼやけ、色彩とシルエットのみを残して美しい細部の装飾は永遠に失われる。
だから、写真はこの世に生を受けたのだ。美しい、あるいは美しくない思い出も、そのまま閉じ込めておくために。
今の自分にとってどうでもいいものを、いつかそれを欲する自分へ残しておいてあげるために。

だから、できる限りどうでもいいものを撮りたいと思う。身の回りにあるものを。普段一番よく見ているものを。
金閣寺は百万人が撮るけれど、わたしの部屋に差し込む日の光は、わたし一人にしか世界に残しておけないのだから。

あと、プーマのベルトが欲しい人は連絡ください。たぶんこれも世界に一本しか無いです。


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