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ブラウン管の中の星

葵が事故にあった時、僕らの関係はもう既に終わっていた。それどころか、僕はもうその時涼子と結婚していた。でもそれ以来僕は一層仕事に励むようになった。ただ目の前の仕事をこなした。そうすることで何も考えないで済むようにしていた。死ぬということがどういうことかわからなかった。ときおり時計を見るといつのまにか時間が過ぎている、そんなことが唯一の救いに思えた。

市部にある取引先での仕事を終え、直接家に帰ろうと電車に乗った。打ち合わせの際の些細なミスと、自分へのやるせなさの中で、呆然とただ吊り広告を見つめた。
ふと、顔をあげるといつのまにか電車は地下に潜っていた。市ヶ谷まではあと5分ほどだろうか。
市ヶ谷で電車を乗り換えるつもりだった。だけどまだ家には帰りたくなかった。市ヶ谷には学生時代を過ごしたキャンパスがあったから土地勘が少しあった。一度外に出て次の駅まで散歩しようと思い立った。

大学側の外濠公園を飯田橋まで歩く。もう5限の下校ピークはとうにすぎていて、学生の姿はそこまで多くない。向こうから若いカップルが歩いてきた。少し毛玉の目立つ白色のざっくりとしたニットと、綺麗な紺色をしたジーンズと茶色のブーツ。ボルドーのマフラーを見て、ああもうそろそろ冬なのかと気づいた。流行りの服というよりも、少し古くて不器用さのあるどこか懐かしい服装に思えた。
しばらく歩いて、左手の木々が途切れているところで立ち止まった。手すりにもたれかかって、川を挟んで向こう側の外堀通りを通る車の流れを見つめた。もうすっかり暗くなった空の下で、車は流れ続ける。すぐ下を中央線が通った。
どれほど時間が経ったかわからない。また電車の音がした。でもその音が、どこか遠くで鳴っているような気がした。目の前の景色はまるでブラウン管の中に投影されたもののように見えた。

葵が事故にあって、この世を去っても、僕の人生とはもはやなんの関係もない。だけどそれから、僕の世界は一段階彩度を下げた。僕の人生のうちの一欠片が終わってしまったということが、どうしても耐えられなかった。なぜか、漫然と生きる自分が許せなくなった。それから涼子は実家に帰ると言って家を出ていった。

風が吹いた。乾いた空気を吸い込んだ。喉の奥から肺にかけて、ひやりとした。葉は湿度を失い、松はもろくなっている。一歩足を踏み出したら、簡単に死んでしまう。僕はその実感がどうしても湧かなかった。ブラウン管のこっち側で、僕は一人、満たされない乾きの中で震えた。音はもうほとんど聞こえなかった。視界もだんだん暗くなった。そうして東京から電気が消えた。
ふと空を見上げた。満天の星々が、乾いた空気の中で、儚い揺らぎを持って必死に自分の存在をアピールしていた。
さみしい、そう感じた。

中央線の音で我に返った。星はもうほとんど見えない。車は流れ続ける。自分の後ろを、勤務上がりのサラリーマンが通り過ぎていった。

風が吹いた。軽い痛みを伴う寒さが肌を撫でた。でもその寒さが僕には愛おしかった。冬が来る。晩秋のさみしさの中で、僕は生きていた。僕はまた飯田橋に向かって歩き出した。



#秋 #小説 #ショートストーリー #寂しさ #外濠公園

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