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W. A. モーツアルト:ディベルティメント K. 136

作曲:ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト
演奏:ラジオ フランス フィルハーモニーオーケストラ
収録:2016年3月  演奏時間:18分54秒

イギリス・フランス・プロシアなどヨーロッパ全域を巻き込んだ「7年戦争」勃発の大騒乱のさなかの1756年1月、ドイツの片田舎 ザルツブルグの大司教 ヒエロニムスの宮廷に仕える宮廷音楽家のレオポルト・モーツァルトの家に一人の男子が誕生しました。

(ザルツブルグという片田舎に何故、教会の大司教の宮廷があったのか?
という理由は、かなり後になりますが、ケルト音楽のシリーズまでお待ちください。)

ウォルフガングと名付けられたこの赤ん坊は、物心つくとすぐに大変な音楽の才を発揮し始め、「この子は音楽の天才だ」と感じた父レオポルドは、男の子にありったけの天才教育を施します。

幼少の折すぐに神童・天才 と呼ばれ始めたウォルフガングを連れ、父レオポルドは列国・諸侯の宮廷を訪ね歩き、6歳の時には、シェーンブルク宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏したというのですから、その類まれなる才能は、幼少のころ既に、ヨーロッパ中に鳴り響いていたと思われます。

が、父レオポルドの雇い主のザルツブルグ大司教 ヒエロニムスは、この父子の旅行を好まず、自分の宮廷に貼り付けてしまいました。

ザルツブルクの宮廷は、宮廷といえ、あくまでもローマ教皇から任命された大司教が支配するキリスト教の世界であり、さまざまな制約が課せられていました。

結局の処、大らかな世俗の君主に庇護された音楽のような自由な創作はかなわず、遂に1781年、25歳のモーツァルトは大司教と決裂し、解雇され、ザルツブルグを去ることとなるのです。

さて、最初にご紹介する「ディベルティメント K136」は、1772年の初頭に作曲されたものです。
2回目のイタリア旅行から帰った直後、モーツアルト、僅か16歳の時の作品です。

原曲はバイオリンx2、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの5人程度の構成で書かれています。当時の片田舎ザルツブルグの宮廷で与えられたサイズはそんなものであったのです。

ともかくも、一度お聴きになってみてください。
青年らしい、なんとも瑞々しいメロディに圧倒されてしまいます。
陽光射すイタリアの抜けるような青空の下、眩しい情景が目に浮かびます。

王侯貴族のために書かれた典雅なだけの音楽とはまるで違う調べの中に、
幼い天才はいました。
その時代以前の誰もが想像もしなかったメロディが、モーツアルトの中には溢れていました。

そして、想像してみてください。

この曲が書き上げられた時、その楽譜には一点の書き直しの跡もなかった、ということを。

歴史家によりますと5歳にして最初の曲を、8歳にして最初の交響曲を作曲して以来、わずか25年余りの間に、626もの曲を残しました。

ある人の説によると、10歳から作曲を始めたとして死の床につくまでの合計時間を、彼が書いた全音楽の演奏時間の合計で割り算をすると、24時間中作曲をしても足りない、らしいのです。
つまり、どう考えても、同時に数曲を作曲していたことになります。

とすると、メロディを頭に浮かべ、楽器で弾いて推敲している暇などはないことになります。

頭の中で同時に幾つもの曲を作り、頭の中でそれぞれを完成させ、完成したものを片端から楽譜に書き写していた、としか考えられません。だから修正の跡がないのだと。

映画「アマデウス」の中で「天才というよりは、神が選んだ楽器であった」とモーツアルトをよく知る、同時代の作曲家サリエリが呟いています。

つまり、天上に響く妙なる音楽を、創造主が、モーツアルトの肉体を使って下界に運ばせたもの、と考えるのが適切な答えなのかもしれません。

脚注:
ディベルティメント:イタリア語の divertire(楽しい、面白い、気晴らし)から来た言葉。
18世紀中頃に現れた明るく華やかな器楽組曲で、貴族の社交・祝宴の場などで演奏された室内楽曲という意味です。日本語では喜遊曲と訳されるようです。

⇒  W. A. モーツアルト:交響曲 第25番 ト短調 K. 183へ続きます。


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