生きている実感は、傷痕よりも捲るページで
言葉は尖りすぎてしまうけど「積読=健全な自傷行為」説をここ数年唱えている。
本が積み上がっている間は、生きていてもいいのだと思える。本が増えていく度に、生きてるって確かめてる気がする。こんなに読みたい本がある、気になることがあるという一種の証拠。
一方で、読まなければいけないという重荷にも感じてしまう。自分で好きなものを積んだだけなのにね。
本当に読むのが好きだったのか、娯楽が限られていたせいなのか定かではないけれど、小学生の頃はたしかに読書が趣味だった。それが中学生になると勉強時間も増え、インターネットという新たな居場所も得て、すっかり読まなくなってしまった。中学生から高校生にかけて、新しい言葉をくれる存在は歌詞/音楽になっていった。
大学に入り、余暇に読書を選ぶようになるも定着はせず、社会人になり仕事がある程度ハンドリングできるようになったところで、また本を手にとるようになった。最近は母と本の貸し借りをすることもある。(母はビジネス書はもう読まないので、もっぱら小説の交換が多い)
(過去noteの再掲)
積みっぱなしにせず読んでみれば、本という媒体における示唆の多さとコスパの良さに感動してしまう。ビジネス書の知見はもちろん、小説からは感情を教わったり、前を向く勇気をもらえたりもする。エッセイには「自分も書いてみたい」と欲求を刺激される。
忙しい日々の中で、積読がなくなる日は来ないかもしれない。それでも、生きている実感は、傷痕よりも捲るページで確かめたい。血ではなく知を滲ませて、健やかな痛みとともに日々を紡いでいきたい。
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