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燕去月

大学最後の夏のある日、二人は古いマンションの一部屋にいた。軽音サークルの仲間でもあり恋人未満友達以上のいわゆる今どきの関係のような印象だが、この二人は違った。
今時の子は…と書いたが今時とは若い世代をその時代を示すもの。誰でも今どきを通過するのであろう。今時だから多く受け入れられる反面、昔今どきだった世代からは顔をしかめられる存在のようにも思う。必ずしもそうではないが。

朝焼けがまだ青の世界の時、ふと夏菜子は窓の外をみた。『ここはどこだっけ…海の中に放りだされたような世界に漂っているようだけれどちっとも怖くないし、むしろホッとする。あ、そっか、昨日あのまま寝てしまったんだっけ。』
サークル内で組んでいるバンドの練習日でスタジオに入ってたんだと思い出した。皆、学生の身でバイトをしているので夜遅くからの入りだった。

夏菜子の左足が、隣でまだ熟睡の健史の足に少し寄り掛かっている。誰かが側にいることだけでも、形の見えない不安からすくってくれるお守りのようにも夏菜子は思っていた。

でもそれも今日までと決めていた。


練習のあと、いつも二人はこの部屋で待ちあわせをしている。昨日も氷の溶けたグラスを片手に音楽談議に花が咲いていた。二人共、それぞれ恋人がいる。一般的にいうとこの関係はあまり良いものではないだろうか。男女の関係と想像してしまうが身体の関係は一度もなく、そういう二人だった。でもサークルの友達以上の不思議な関係。はたからみたら都合の良い関係とも捉えられてしまうかもしれないのだ。どう受け取られようとも二人は、気にしなかったがややこしくなるので互いの恋人には打ち明けてはいなかった。

いつも足が少しだけ触れ合っているのに健史は気が付いているんだろうか?とも夏菜子はおもう。空が青色から薄黄色が混ざった水色になってきた頃、ようやく健史も起き出してきた。昨日飲んだウィスキーのロックがきいていてまだ身体がフワリとしていたがベッドから身体を起こすと夏菜子が窓を見て座っていた。

「おはよう」と声をかけ、「今、コーヒー落とすね」と空を見続けていたままの夏菜子に喋りかけた。
「うん、ありがとう」

と夏掛けケットを畳みながらそう言った。
時計の針をみるとまだ6時20分、寝ぼけたまま身支度をする。いつもはこのまま大学に通学する事が多い。学科は違うが、二人とも単位もほとんどとってしまっていたから空き時間がかなりある。
今日は二人とも午後からの1単位のみだった。

いつも頷いて聴く事が多い夏菜子からこう提案されたのだった。「健史さ、ご飯食べたら、ここの窓から見えるあの公園に行かない?」と。今までそんな事を言われたのはサークル以外で一度もなかったのだけど、健史は秒も空けずに「いいよ、行こう」と返事した。

簡単に食事を済ますと着替えて外へ。
この辺は大学も多く、緑が多い地域だった。窓から見た公園には寝転べる芝生も日陰となる木もあり日中は家族連れも多そうだ。まだ8時過ぎの朝の公園。チラホラ犬を連れ散歩をしている人しかいなかった。

まだ日差しが低く差し込み、風が通り過ぎるベンチに腰掛けた。「就活どう?」と夏菜子は聞いた。「何か所かまわりはじめているよ。」
「そっか、私はもう決まりそうだよ」
「そうなんだ!凄い良かったじゃん」
「うん…」
とその後も何か言いかけだったがその時に白い鳥が一斉に大空に飛び上がった。
その後もとりとめのない話にまたジュース一本手にとっただけなのに盛り上がった。健史は毎回思っている事がある。夏菜子と話をしていると変な気遣いはせずに心が落ち着くのだった。たぶん夏菜子もそうおもっているはずだと思っていたが、サークルの仲間のひとりであるし、言葉に出せずにいた。

太陽が真上に近くなってきた頃、額からも汗が吹き出すようになったので移動する事にした。移動と言っても近くのスーパーで涼をとる。
健史は一人暮らし歴も長く料理が上手かった。主婦並みにレシピを知っていて作る事が出来るのだった。
「夏菜子の就職祝いに俺がランチ作るよ」と言って、思わぬ提案に夏菜子は少し驚いたが「うん、ありがとう」と頷いた。食品コーナーをみてまわる。その様子は同棲中のカップルにも見えるかもしれない。
食材を買い込んで健史の部屋に戻った。パスタを作る予定。お買い得のスパークリングワインも買い込んだ。
こんなに長く健史の部屋にいる事は今までなくて夜の灯りとはまた違う灯りになんとなく違和感を感じつつもまだ居たいとも思った。
「待っててね、」と袖をまくり手際よくフライパンを握る健史の右腕。
夏菜子は思った、こんなだっけ?なんか逞しい…夏でも冬でも長袖の開襟シャツを着ていたから気が付かなかったのかもしれない。
二人は、グラスを再び手に持って乾杯した。出来立てのパスタの美味しい事といったら最高の時間が流れていた。友と喋り、飲む事が唯一無二の時間。健史は、古いレコードをかけた。何故か手に取ったレコードはファッツ・ドミノのLPだった。
昼間からのお酒は最高で、二人とも午後の1単位の事は頭の片隅にあったのだがお酒が進むたびに形崩れてしまっていた。しっかり者の夏菜子が言った。「健史、午後の授業…」とデジタル時計に目をやるとあと45分で始まるところだった。「うん…」と生返事をした健史はもう一言告げた。「このまま飲んでようよ」と。
夏菜子はいつもよりトーンが高い声で「初めてのサボりだよ!健ちゃんに責任とってもらおう」と返事をした。
夏菜子は酔うと健史から健ちゃんに変わるのだった。
昼間からの酒盛りは続いてく。
窓辺に差し込む光はあたたかい橙色に変わってきた。あんなに暑かった生ぬるい風も止み、南西からの風が強く吹くのを感じた。
「ねえ、夏菜子といるとなんかこう時間が止まっているかのように思えるんだ。あと夜に隣で寝ていて時々足が重なるのが心地よくて…」と言いかけた時、ふわっと夏菜子の唇が健史の唇に重なった。
健史は、突然の事で身体がボーーっと燃えたような感覚になった。
軽い接吻はすぐに離れ、
「健ちゃん、もうそれ以上言わないで!わかってる。わたしも同じだよ、でもね、もう決まってるの。就職先は永久でね。卒業したら結婚する事になっていて…」続けて外に目線を移しこう言ったのだった。窓の外を指差しツバメがいそがしく飛び回っていた。「もう燕去月になったしね、ちゃんと飛び立てるようになったから、健ちゃんには見てて欲しいの。私もずっと健ちゃんの事見ていくね。遠く離れても心はいつもここにあるから大丈夫だよ。」と夏菜子は胸を差していつもよりしっかりした口調で告げたのだった。
「今までありがとう」
これは「頑張って!と、ここに来るのはもうサヨナラ…」と再び夏菜子の唇は健史に重ねた。身体をギュッと引き寄せ抱きしめた。目に熱くも光る雫をこぼさぬようにもう一度彼女を強く抱きしめた。これは友への祝福のハグだと、BGMには『Aint That a shame』が強く静かに流れていた。

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