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考えるとは、五感で感じること。

第一印象というのは不思議なものだ。友人と最初に話した30年以上前のやりとりをやけに鮮明に覚えているかと思えば、自分で議事録を作り経緯も背景もちゃんと記憶している会議に、後に結婚する相手が出席していたことを、どう頑張っても全く思い出せなかったりもするのだから。

それでも、50年以上生きてきた経験則で断言できるのは、感覚的な判断は大切にしなきゃいけないってこと。なんとなく心惹かれる、とか、なんだか嫌な感じがする、とかは、たとえその時点で理由が分からなくても、無視できない確率で的中する。

で、なんとなく気になるのが、昨日のTV番組で紹介されていた、デジタルクローンによる働き方改革の話。特定の人物の考えを学習させたクローンに判断や意思決定といった仕事をさせ、本人はのんびり人生を楽しむことが可能になるという。う~ん。

身体を壊すほどに忙しく、家族と過ごす時間もない働き方なんて当然避けたい。でも、ただひたすら余暇を過ごすのって本当に楽しいのかしら。そして、私の思考パターンを記憶した私のクローンは、本当に私の気持ちを代弁してくれるのかしら。なんとなく、しっくりこない。

勝間さんも指摘しているとおり、人工知能はロジックから分解して思考に落としている。大量なデータを学び続けるディープラーニングだとしても、それは特定の情報から構築したアルゴリズムの情報処理結果に過ぎない。もちろんセンサの種類を増やせば、いわゆる「正解」に近づくかもしれないけれど、移ろいやすい気持ちのファクターはどう処理されるのだろう。

人間は逆。ロジックは後付けで感覚が先にある。幼い時からの五感記憶や感情の蓄積が「なんとなく」の背景にある。自分の体験だけでなく、読んだ本や友達から聞いた話、見た映画のシーンまで、共感したり反発したり、あるいは想像したりしながら、私なりのココロの在り様が出来上がっている。そしてココロは決して常に一様ではなくて、日々揺らぎながら生きていると思う。

科学の限りない可能性を私は信じている。けれど、どんなに精巧なクローンでも、今この時のワタシの気持ちを正確にミラーできるとはとても思えない。むしろ、サムシング・グレイトな存在のほうが、ずっと信じられるような気がしてしまう。

つまり、私は単に理屈っぽいだけで、実はちっともロジカルじゃない人かもしれないな。ちゃんちゃん。


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