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◯拷問投票193【第三章 〜正義と正義〜】

 しかし、実は、時代とか環境とかを持ち出すまでもない。
 積極的刑罰措置は、百年以上にわたって伝統的に続いてきた絞首刑と比べても、かなり強い苦痛を目的からして不必要に与えるものである。
 絞首刑の場合は、たとえ即死が失敗したとしても、数分のうちに意識を失う。一方で、積極的刑罰措置は、はなから一か月間の苦しみを与えることを前提にしている。あくまで精神の自由の制限が目的というなら、一か月間にわたって昏睡状態に処すほうが方法として適している。
 はっきり言って、積極的刑罰措置が合憲として許容されることはありえない。法律家の多くは、これが憲法第三六条に違反していることを理解している。誰もが見て見ぬふりをしてきた。
 刑事司法の秩序を取り戻すという大義名分のために。
 おそらく、今回の拷問投票で史上はじめて積極的刑罰措置が実施されたら、弁護側はこの刑罰は違憲だとして最高裁に上告するに違いない。最高裁は当然の如く違憲だと認める。その判断を受けて、国会としても対応することを余儀なくされる。拷問投票法はすぐにでも廃止となるだろう。
 この制度に持続力は……いや、そんなことはどうでもない。大事なのは、今回の事件で拷問を発動することだけだ。
 長瀬は、ときどき気を取られながらも、流れていく国民の声を咀嚼していく。
 ある投稿には、『これは僕の見解です。ぜひ、ご一読ください』として、ブログ記事へのURLが添付してあった。一般人の投稿だが、かなり拡散されている。長瀬は、URLをクリックした。

 今回の事件について、僕が思うことを素直に書かせていただく。大学院で人類学を専攻した立場から言いたいのだが、もともと人間というのは一般的に自分のために人を殺す生き物である。大虐殺はしばしば起こってきたし、現在進行形でも地球の至るところで人を殺す活動が続いている。ある研究として、狩猟採集民だったころの人類の半分は人に殺されていたとするものもある。
 僕はもっとシンプルに人をとらえたい。殺人というのは、なにも、人間にとって珍しい現象ではない。
 わかりやすく言えば、ダイエットに失敗する主婦と同じである。ダイエットというのは難しいことで、失敗する人がいっぱいいる。それと同じで、人を殺さないことが難しくて、人を殺さないことに失敗することもある。殺人というのは、言ってしまえば、そういうことなのであって、誰でもやってしまう身近なものだ。
 少し厳しいことを言うようではあるが、ダイエットに失敗したことがある人間は、おそらく、殺人犯と同じような状況に置かれたら、だいぶ早い段階で人を殺すだろう。そういうことである。
 たしかに道徳的に許容できないからこそ、殺人に対する評価はスパルタにならざるを得ないのだが、現実的に考えると、殺人を糾弾することのできる人間など、ほとんど存在しない。激しい孤独に襲われて恋人を求めたとき、感動的な映画を観て涙を流したとき、一日の疲れを吹き飛ばすように酒を飲んだとき、そのとき、もう、わたしたちは殺人犯と同じことをしているのである。そして、それらを糾弾することがスパルタすぎるように、殺人を糾弾することはとてつもなくスパルタである。
 殺人を糾弾すべきでない、とまでは言わないし、このような見解が被害者や被害者遺族にとって、それこそスパルタすぎることは自覚している。しかし、われわれはもっと現実を許容すべきだ。われわれは殺人犯と同じように弱く、殺人犯もわれわれと同じように弱いのである。
拷問なんか、絶対に、すべきじゃない。拷問に賛成するなんて、何様のつもりだ。それが僕が素直に思っていることである。

 なんとも詩的でロマンチックな見解で、本当は笑い飛ばすべきところだ。それができなかったのは、長瀬の心が弱っているせいだった。