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◯拷問投票188【第三章 〜正義と正義〜】

 佐藤は、拡声器を持たない人々の息遣いが聞こえてくるところまで来て、よりスピードを落としていった。汗に濡れた人々の妄信的な意思が右耳にまとわりつくようになった。視界の右は、黄色く染まっている。
 佐藤は、なるだけ目を向けない。幅の広い歩道上に出現した臨時の細い歩道は、赤いコーンによって守られている。
 コーンの内側で、マイクを持ったリポーターは瞬きも忘れている。
「ご覧ください。刑罰投票制度の賛成派と反対派が同じところでデモを行い、激しい応酬を繰り広げています。いま東京高裁では……」
 グレーのジーパンを穿いた男は、スマホを耳にあてている。
「ええ、そうなんです。平和刑法の会が動いているらしくて。ええ、ここに来るという情報もあるんですが。ええ、はい……」
 黄色いミニスカの若い女性は、妖艶なふとももに汗を流していた。
「いつも我慢してんだよ。わたしたち。そうそう、そうなの。これ以上は、平等な選挙権なんて言ってらんない……」
 四方をスピーカーで挟まれたような騒々しい空間にいると、無意識のうちに足早になっていった。
 佐藤は、気づけば、赤く染まった集団を後方へ押しやっていた。振りかえり、己の現在地点を確認する。
 東京高裁の玄関前を通り過ぎたことも、『国民のひとりひとりを守る会』の群衆が右を流れていったことも、そのときになって気づく始末だ。すでに十メートルは離れている。そこでもまだシアターの音響よりも迫力のある声が鼓膜を刺激していた。
『選民思想を正当化することはできない!』
『違う。すべての国民の人権を尊重しているからこそ、適切にかじ取りができる人間を優先するだけだ。人気投票による民主主義のせいで首を絞められ、苦しんでいる弱者がたくさんいることを忘れてはならない』
 さっき佐藤の右耳がかすめとったリポーターは『刑罰投票制度の賛成派と反対派』と説明していたが、どうやら争点はそこではない。
 民主主義なのか、エリート型民主主義なのか。
 思っていたよりも対立関係は複雑かもしれない、と佐藤は思った。制度そのものを具体的な対立点にしながらも、その背後にイデオロギー的な対立が顕在化している。世界のいくつかの地域で民主主義が続々と破綻していく現代の国際社会においては、これも必然的な対立だろう。
 しかも、それが唯一の対立軸ではないからこそ、事態はより混乱をきわめている。
 ふたつに分断されたうちのどちらかに自分のアイデンティティーを固め、さまざまな正当化条件を後付けしている側面もある。争点はいくらでも出てくるし、意識的に付け加えることもできるだろう。
 佐藤は、群衆に背を向け、歩き出した。
 世界が動いている。同一の秩序は続かない。
 どこかで聞いた、まさに歴史に終着地点など存在しない、という言い回しがじわじわと染み込んできた。