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【道徳二元論①】〇基礎理論〇 自己利益を追求する人間

 こんにちは、山本清流です。


 『道徳二元論』の第1回目の講義です。

 基礎理論における「自己利益を追求する人間」というテーマでお話しします。


 今回の要約は以下のとおり。

 道徳二元論の前提として、人間は合理的に自己利益を追求している生き物であると想定する。もちろん利他的な行動もとるし、非合理な行動もするが、細かい部分は捨て、簡略した理論モデルで考える。すべての人間は、自分の満足度を最大化することだけ考えているのであり、なにがあろうとも、誰かのために自分の満足度を減らそうとはしない。

 この内容について、以下、深掘りします。

 お付き合いください。


 【理論的な前提】

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 なにかを考える際、すべてのことを考慮するのは現実的ではありません。

 すべてのことを細かく調べていく実証的な研究もあると思いますが、


 今回の講義の内容は、あくまでも、「頭の中で考えたこと」です。

 考える際、あらゆる問題を考慮すると、めちゃくちゃ複雑なモデルになってしまいますよね。


 【たとえば】

 アメリカ人の行動の特徴について考えたいとき。

「アメリカ人は〇〇」「アメリカ人は✖✖」「アメリカ人は△△」などと考えたいわけですが、


 そもそもアメリカ人ってなに? と言われれば、考え方はいろいろです。


 アメリカに住んでいる人なのか、「わたしはアメリカ人だ」という自覚を持っている人なのか、

 アメリカで生まれ育った人なのか、


 アメリカの国の外であっても、アメリカ人夫婦に育てられた子供はアメリカ人なのか……。


 みたいに、いろいろ考えられます。


 【だから、前提が必要】

 そこで、そういう考えをする際は、まず、前提を置きます。


 いろいろ考えられるけれど、とりあえず、出発点として、絶対に動かせない前提を置く。


 考えを進めていく最初の段階では、このような出発点が必要になってきます。


 【道徳二元論の前提とは】

 『道徳二元論』においては、その出発点は、「人間は合理的に自己利益を追求する」という前提です。


 もちろん、それだけが人間ではないですよね。

 利他的な行動をする人もいるし、非合理的な行動をする人もたくさんいますよね。というか、ほとんど、全員、そうです。


 けれど、そういう部分はたしかにあるとは認めながらも、考えを進めていくうえでは、切り捨ててしまおう、というわけです。


 細かいことを切り捨てることで、より本質に近いところが見えてくることも往々にしてあるのです。


 以下、「合理的に自己利益を追求する」とはいかなる意味なのか、具体的にお話しします。


 【合理的に自己利益を追求する】

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 「合理的に自己利益を追求する」とは、理屈の上で自分の満足度が最大化するように行動することです。

 道徳二元論では、「満足度」という言葉を使いたいと思います。


 【満足度とは】

 満足度とは、その名のとおりで、個人の満足の度合いです。

 道徳二元論では、満足度の性質として3つ取り上げます。


①満足度は多ければ多い方がよい。
②満足度は、他人、または自分の満足度と比較可能である。
③すべての個人が同じ満足度の性向を持つ。

 以上の3つの性質です。以下、詳説します。


 【①満足度は多ければ多い方がよい】

 満足度は多いほうが好ましいということです。

 そのため、合理的な人間は少ない状態より、多い状態を求めるわけです。


 【たとえば】

 リンゴジュースを飲んだときの満足度が4だとしましょう。

 一方で、オレンジジュースを飲んだときの満足度が5だとします。


 このとき、4<5で、満足度の多い5のほうが好ましいです。

 合理的な人間なら、4のリンゴジュースではなく、5のオレンジジュースを飲む選択をするはずです。


 このように、より多いほうが好ましいという設定です。


 【②満足度は、他人、または自分の満足度と比較可能である】

 満足度同士は互いに比較できるということです。


 これは現実には難しい設定だとは思うのですが、

 道徳二元論では、この設定を持ち込んできます。


 【たとえば】

 さきほどの例のとおりで。

 4と5だったら、5のほうが大きい、と比較できますよね。


 そんな感じで、すべての満足度は比較可能であると考えます。

 比較可能であるからこそ、選択行動ができます。


 リンゴジュースが4で、オレンジジュースが5のとき、

 その単位が4センチと、5キログラムみたいな感じで、それぞれを比較できなかったら、


 どちらがいいのか、わかりません。


 【他人の満足度とも比較可能である】

 また、道徳二元論では、他人の満足度同士も比較できます。

 この想定は重要です。


 【たとえば】

 Aさんがボーリングをする満足度が10、Bさんがランニングをする満足度が5のとき、


 10>5なので、Aさんがボーリングをする満足度のほうが高いです。

 こんな感じで、他人同士でも比較できます。


 つまるところ、すべての人が互いの満足度を比べあって、

「あいつは、俺よりも満足度が高い」「あいつは、わたしよりも満足度が低い」などと認識できるわけです。


 【③すべての個人が同じ満足度の性向を持つ】

 人によって、満足度の性向は変化しないということです。

 これは受け入れがたいかもですが、あくまで理論の前提であることを思いだしてください。


 AさんとBさんとCさんがいるとき、3人とも、ボーリングをする満足度は10で変わりません。

 10という度合いが重要なわけではありません。


 「同じことをする満足度が全員、同じである」というところが重要です。


 すべての人が、オレンジジュースを飲む満足度も、リンゴジュースを飲む満足度も、ボーリングをする満足度も、ランニングをする満足度も、それぞれ同じであるということです。


 以上。道徳二元論では、上記した3つの前提の上にある満足度を扱います。

 この満足度をいかに最大化するか、すべての個人が考えている世界を前提にします。


 今回は以上です。お疲れさまでした。続いては、こちら。