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○拷問投票1【第一章 〜毒蛇の契約〜】

「難しそうだとは受け取らないでください」
 長瀬達也は、マイクを強く握り、ぐるりと講義室内を見回した。三〇〇人収容可能な中規模の講義室は、およそ半分が埋まっている。
「たしかに、法学の基本がわかっていたほうが理解は深まるだろうし、そのほうが学習の効率がよいことは言うまでもないですね。刑事法関連の、たとえば実体法としての刑法、手続法としての刑事訴訟法、この講義で取り上げる法律との関係で一般法にあたる裁判員法。そのあたりを把握していると、なお、理解が進むことも間違いない。かといって、それらの科目を履修していることは要求しません」
 あまり高圧的にならないように注意しながら、学生たちの顔を見ていく。こちらを見つめている瑞々しい瞳にはどれも若々しさがあった。まだ見ぬものを積極的に吸収しようとしている。
 その一方で、全体の三分の一程度か、手元に資料はないはずなのに、顔を伏せている学生たちもいた。
 目を合わすのが嫌なだけで、学習意欲はほかの学生と同等以上に高い、というパターンがある。長瀬のゼミにやってくる学生にも、最近は、そのパターンが多い。
 先日も、ネットテレビニュースで、若者の意識の変遷についての特集をやっていた。対人コミュニケーションがかつてないほど不要になった現代社会においては、それに難を抱えていることが大きな欠点にならないというのだ。
 友達をつくらず、ひとりきりで学生生活を満喫する。長瀬としては信じがたい流行が現に起きているという話だった。
 もちろん、この講義室にやってきている時点で、ある程度の対人能力と学習意欲は推定できる。極端に接触を嫌がるような学生であれば、大学の運営している学習補助サービス『レガシー』を介してリアルタイムで配信されている講義動画を視聴していることだろう。さらに学習意欲の低いような学生であれば、『レガシー』上に残る講義のアーカイブ動画を試験直前に早送りで視聴するわけだ。
 長瀬は、マイクを握ったまま、教卓に設置されたライブ配信用のカメラのレンズを覗きこんだ。
「カメラのむこうのみなさんも、安心してください」
 ちらと手元のノートパソコンのディスプレイに目を落とす。ほんの少しニコッとした長瀬のヒゲ面が映されている。隅の表示によれば、『101』とあった。数字上でしか現れない顔の見えない学生たちにも、丁寧な説明を心がける。
「わたしの講義では、関連の法律問題や、どうしても避けられない法律用語などは逐一、その場で、わかりやすく解説していきます。わからないところがあれば気軽にチャットで質問できる体制も整えていきますので、法学部じゃない学生さんも、法律の講義ははじめてだという方も、ぜひ、恐れないで受講してください」
 これくらいに懇切丁寧なのは、長瀬の気質というより、単に大学からの要求に応えているといったほうが正しい。