【5分で読める短編小説】恐怖と勇気

  『恐怖と勇気』

 恐怖に挑みなさい、と田淵さんに言われた。トラウマだ。ホラー映画を観ているときに、何度も目を瞑りそうになるけど、田淵さんの言葉を思い出すと、それができない。田淵さんの言葉が魔力を持って、僕の瞼の可動域を狭めているようだ。それどころか、僕の心の奥深くにまで土足で侵入してきて、僕がいままでに体験した恐怖をいちいち「勇気」という文脈で解釈し、際限なく僕の心を苛もうとしてくる。

 田淵さんは、小学生のときの同級生だ。はっきり言って、僕は田淵さんのことが好きだった。もともと僕みたいに社会的能力に欠ける人間は、自分だけでは社会で生き残れないので、社会の窓になりそうな明るい性格の人を好きになるように遺伝子に刻まれているのだろう。小さいころから明るい性格の人を好きになった僕だが、田淵さんも例外ではなかった。

 男子相手に「このやろう」とか「このバカ者が」とか言ってしまえる田淵さんの明るさ――この表現には異論もあるだろうけど――には、僕の遺伝子に眠っているセンサーがびんびん反応した。こういう荒っぽいような人に限って、意外に、許容力があったりする。田淵さんなら、僕への偏見も持たないでいてくれるだろうと思っていた。

 小学五年生のときだ。僕はついに長年の夢が叶って田淵さんと同じ班になった。僕はいつもみたいに班の中に溶け込めなかったのだが、ある社会の授業中、手を挙げられずにいた僕を発見した田淵さんが言い放った。

 恐怖に挑みなさい。

 脳の血管が破裂しそうなくらいに頭に来た僕は、後先考えずに両手を挙げたのだが、このボケみたいな動作は周りの生徒を笑わせることもできず、ただ僕に注がれる「変な人だ」という固定概念を強固にしただけだった。

 あのときに田淵さんの口から銃弾みたいに飛んできた言葉は、フリーターになったいまでも僕の頭に浮かんでくる。

 そのせいも大きく影響しているのだろう、僕はホラー映画にハマらざるを得なくなった。恐怖に挑みなさい、と言われたのだから。

 恐怖に挑むというのは、恐怖に直面したときに、そこへ入っていくということだ。そこに入っていくための勇気を持ちなさい、ということだ。

 あのとき田淵さんから受けた怪我は全治五十年くらいの精神的重症で、いまだに改善する兆しがない。ホラー映画は僕にとって人生に課せられた課題であり、それを見つづけることが僕の義務みたいになった。

 世間にはいろいろな意見があるが、僕の頭では、すべての意見が田淵さんの言葉の先入観の中で解釈されるので、ひどく苦痛を伴う情報となって僕の全身をぐちゃぐちゃにする。働きなさい、とか、正しくありなさい、とかいう道徳も、そんなことはやるな、という命令もどれも、最終的には「勇気を持ちなさい」という田淵さんの声に変換されて、矢のように僕の心に降り注がれる。なにも手がつけられなくなって、散歩するしかなくなり、散歩でも対処できなくなって、ついには田淵さんを事故に見せかけて殺害する方法について考えだす始末だった。

 僕の頭の中では、すでに、田淵さんを完全犯罪で殺害する方法がいくつも浮かんでいて、いつかのためにストックされている。こんなことは非人道的だろうと反省するときもあるが、そもそも、恐怖に挑みなさい、というメッセージそのものが非人道的だとしか僕には思えない。

 そんな僕は、フリーターとしてコンビニ店員を続けながら、やはり、今日もホラー映画を見る。近場のレンタルショップで借りてきて、それを一度も目を離せずに、大音量で鑑賞する。ほれみろ、僕には勇気があるじゃないか、という勝ち誇った気分になり、記憶の中の田淵さんが土下座をしてくれるので、その頭を思いきり踏んずけてやる。いまごろ、詫びても、もう遅い。僕は、あんたのせいで、ホラー映画を見るしかできなくなってしまったのだ。

 そういうわけで、僕は、恐怖が目の前に差し迫ってくると真っ向から突撃するような人間になってしまい、もともと社会的に外れていたのに余計に社会性が欠如した。この損失分を金銭で換算すれば、莫大に上るに違いない。

 先日のことだ。河川敷を散歩をしているときに、どう見てもヤクザにしか見えない強面の男ふたりがむこうから歩いてきた。僕は瞬間的に恐怖に縮み上がりそうになったのだが、そのまま縮み上がれば田淵さんに罵られるに違いないと考え、ふざけるな、このやろう、とわざと肩をいからせて、堂々とした様子を装って、真っ向から勝負を仕掛けるように歩きはじめた。

 恐怖は立ち向かうためのものだ。恐怖にぶつかったら、全力で戦わなければいけない。それこそ勇気を持って、恐怖に打ち克たなければいけない。

 僕はせいいっぱいに怖い顔をして、ヤクザの男たちを睨んでみたのだが、すると、相手も気に障ったらしい。

「なんだ、てめえ、こら!」

「あ……」

 僕は、声が出なくなった。その様子を見たヤクザが笑い飛ばして歩いていく。このときの屈辱と言ったらない。あの場面を田淵さんが見ていれば、きっと、僕のことをバカ笑いしたはずだ。やっぱり、あなたは勇気がないね。恐怖につぶされちゃって、ダメな男――いや、男というより、男の子、ね。そう笑うのだろう。

 ところで、田淵さんは、いまなにをしているかと言えば、どうやら、それなりの大企業に就職したらしい。僕みたいに会社勤めがままならない人間を好きなだけ玩具みたいに遊んだ挙句、自分だけは社会的に認められた地位にのさばっているなんて、なんて人だ。僕は近所の神社にいる神様に、田淵さんを呪い殺してくださいと何度もお願いした。いまのところ、田淵さんに呪いがかかったような様子はない。

 これまた、最近のことなのだけど、またヤクザと遭遇したことがあった。前々から覚悟はしていたが、二十も後半になってフリーターというのは、なんとなく、周りの目が冷たい。僕はコンビニで働くだけで精神的な重荷を増やすことになり、いつも夜は近所の銭湯で重荷を洗い落とすようにしていた。その銭湯に、その日、全身入れ墨の男が来ていた。

 僕は心臓が潰れそうなくらいに恐怖し、僕の大事なあそこがかわいそうなくらいに縮み上がってしまったのだが、いまこそホラー映画で修行してきた成果を発揮するべき時だと信じて疑わなかった。僕は絶対に怯えてやらないぞという気持ちになり、堂々と胸を張り、身体の中のいちばんの弱点を晒しながらも、ヤクザの隣を通るときに、ふふん、と鼻を鳴らした。

「おい、てめえ、なんだ?」

「あえ……」

 僕はすっかり声が出なくなって、その場に立ちすくんだ。そのヤクザは僕に危害を加えそうな勢いだったのが、僕は土下座すらできなかった。

「調子こいとんじゃねえぞ、こら。ちんちん、切り落とすぞ」

 一度も正常な機能を果たしていない僕の生殖器が、役目を果たさないままで切り落とされるなんて、そんな悪夢は勘弁だ。僕はプライドをズタズタに切り裂きながらも硬直したままだった。ようやく許してもらえたときには、僕のあそこが身体に食い込むくらいに縮んでいた。それを見たとき、また田淵さんの声が頭に駆け巡り、ほおら、この意気地なし、と言われたような気分になった。

 僕はとうとう耐えられなくり、銭湯を飛び出した。全裸のまま、夜の街を駆けた。勇気って、なんだ。そんな疑問が頭の中でじわじわと拡がり、重たいものが脳天に降ってきた。

 通りすがりの若者が、わざと、僕のすぐ真横を通りすぎて、挑戦するように睨んできた。舌打ちが聞こえた。なにあいつ、きもい、という声が飛んできた。

 涙を流すほどの見せ場が人生にない。

 僕は全裸で疾走するというカオスを演じて、ついに警察官に保護された。交番の奥の部屋で服を着せられ、警察官の怖い顔が僕を睨んだ。怖いと思ったからこそ、僕はその目を睨み返した。

「僕は、ホラー映画が好きです」

 だからなに、という警察官の冷めた目を見たとき、僕は声が出なくなった。情けなかったが、涙はさらに情けないので、眼球がからからに乾いていた。

 ホラー映画よりもずっと怖いこの世界で、僕は、なにをすればいいのだろうか。しかし、そんなことには最初から気づいていた。気づいていたからこそ、目を逸らしていたのだ。

「僕は――」

 警察官を相手に宣言した。

「イライラする。自分にイライラする」

 自分に対する激しい殺意が抑えがたく膨れ上がっていた。それは自殺を目指す心の動きではなく、明らかに、他殺を目指していた。僕は僕自身にイライラしているのであり、舌打ちをされたり笑われたり見下されたりするたびに、自分でも同じように、自分のことを舌打ちし、笑い、見下していた。

 「なんだ、てめえ」と、ヤクザたちが僕に浴びせた言葉は、僕が僕に向けて発しようとしていた言葉だった。

 警察官の目が、なんだ、こいつ、きもちわりい、という本音を語っていた。

 僕はこのうえもなく同感だったので、「わかる、その気持ち」とだけ伝えた。自分のことを殺したくないと考えている人たちが、天上の神々のように見えて、激しい嫉妬に心が埋まった。


 【解説】

 弱い者は多くの権利を自主的に返納する。そんな義務がないとも知らずに。