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◯拷問投票250【第四章 〜反対と賛成〜】

「わたしは、実は、長年、刑事法の研究をしている者です。殺人事件の被害者遺族の方などと面会をする機会もあります。彼らの多くは、犯人がその罪を死をもって償うことを望んでいます。でも、本当に復讐として犯人を殺害する遺族はいません。死刑制度がストッパーになっているのです」
 詰まることもなく、すらすらと出てくる。即興で生み出された言葉の群れは自分でも新鮮だった。
「遺族たちの代わりに殺してあげる、それが死刑制度です。人類はきっと遺族たちを哀れんで、法律に基づいた死刑というものを発明したのです。怒りから来たものではなく、優しさから来たものではないでしょうか。遺族たちの代わりに、彼らの手を汚さないように、彼らを尊重したままで、正義としての死刑を、発動する。拷問投票も、それと同じ役割を果たせるのだと思います」
 嘘だ、と自分で思った。長瀬は、死刑も含めて刑罰は、威圧によって犯罪を抑止するものだ、という冷たい立場をとってきた。刑事司法は、被害のバランスの回復や単純な復讐を目指すものではなく、あくまで公の秩序を維持するための合理的なシステムだ。個人的な利害関係より先に、社会にとって利益であるか、という観点が重要である。この長瀬の立場から言うなら、死刑であれ、拷問であれ、社会のために発動されるのでなければ、なんら正当性を持たない。
 長瀬の口は、学者として貫いてきたこの思想を守るための理屈を、むりやりにでも生み出すのだった。
「刑罰を与えて犯罪を抑止するというアイディアは、なにも、犯罪者や犯罪者予備軍の犯罪を抑止するということだけではなく、犯罪被害者遺族の復讐的な犯罪をも同時に抑止することも含んでいるのです。死刑も拷問投票も、こっちでやるから、そんな汚いことはしなくていい、という哀れみの制度です」
 やはり嘘だった。そもそも、殺人事件であったとしても、犯罪事実を立証するための証拠が揃っていなければ、検察は起訴しない。裁判になったとしても、故意を立証できなければ殺人罪は適用されない。殺人罪が適用されたとしても、死刑になる事件は全体のほんのわずかでしかない。もしも三百人の殺人犯を集めたとしたら、死刑になっているのは数人か、あるいはゼロかもしれない。
 死刑が被害者遺族の復讐的な犯罪を抑止する制度であると仮定すると、このような現実の運用とは明らかに矛盾している。
 まして、拷問投票制度においては一度も拷問が実施されたことはない。拷問を実施することで遺族の処罰感情を癒すことに成功した例はひとつもないので、少なくとも、拷問投票制度がそのように機能しているとは言えないが……。
 しかし、そんなのは、どうでもいいことだった。
 長瀬の口は、ただ、賛成票へと手を伸ばしている佐藤の手首を握り、さらに賛成票のほうへ誘導するためだけに動いていた。
「だから、なにが言いたいかと言いますと、拷問に賛成するというのは優しさのひとつでもあるのだと、そう思うということです」
 長瀬にはわかっていた。高橋実は、もしもふたりきりで被告人と部屋に入ったら、血まみれになった服で部屋から出てくるだろう。同じように生きたままで胸を切断しなければ気が済まないだろう。
――これ以上、高橋実を苦しませないでくれ。
 長瀬は、サイドガラスのむこうへ視線を逃がしたまま、祈るような気持ちで佐藤の返答を待っていた。
「あれ、やばくないっすか?」
 見当はずれにもほどがある間の抜けた声が返ってきた。長瀬は反射的に、は? と言いそうになり、堪えるために口を閉じて振り返った。
フロントガラスのむこうへ、佐藤は、目が釘付けになっている。弱々しく持ち上げられた右手の人差し指の先でなにかが蠢いているのが見えた。長瀬は、佐藤の目と指が示しているほうへ、目を走らせた。
 長瀬の目も釘付けになった。大通りの車道脇から想像もしていなかったものたちがあふれ出てくるのを、半ば放心状態で見つめた。