○拷問投票44【第一章 〜毒蛇の契約〜】
無事に大学を卒業してから悠々自適なフリーター生活を送っていたある日の夜、バイト帰りの夜道で、一瞬にして心臓に負荷がかかるほど大きな声量の悲鳴が聞こえた。きゃあああ、ではなく、ぎゃああああああ、だった。
佐藤が咄嗟に頭に浮かべたのは、殺人事件、という恐ろしい四文字だった。
視界の範囲には異状がなかった。声が聞こえてきたのは、ちょうど左前方にあった巨大な倉庫の裏側のほうだった。
身動きができないままに耳を澄ませれば、はあ、はあ、という女性の荒い息遣いが聞こえた。欲望に満ちた男の独善的な呼吸音も聞こえている。
そこは住宅街ではなく、工場地帯だ。夜になると人がいなくなる。
そのような環境で生じるであろうこと、しかも、このような荒い息遣いを伴うものとして容易にイメージされる行為は、ひとつしかなかった。
世間的には、強姦。
法律上では、不同意性交等、と呼ばれているものである。
その六文字が頭に浮かんだとき、佐藤は、目前で戦争を目撃しているような激しいショックを受けた。リコーダーのテストを処罰できる時代に、いまだに、これほど原始的な犯罪が存在しているのか、と。
それと同時に、佐藤の心の中では、葛藤が生じた。このまま見殺しにするのはいじめを傍観するのと同じであり、その卑劣な行為に加担したと評価されてもおかしくない。強姦に伴って殺害されるケースが類型的に多いことを考えれば、被害者の女性が殺害されることまで容認したかのような立場にもなる。
その一方で、もしも犯人が複数であった場合は、助けに入ろうとしたところで自らの生命を危険に晒す役にしか立たないかもしれない。
警察に通報することも役には立つが、すぐに駆けつけてくるわけでもない。
そもそも、果たして被害者の女性がこの件を警察沙汰にすることを望んでいるかどうかについても不明である。もしも警察が介入すれば、その女性に二次的なダメージを与えるかもしれない。
どうする。
どうするのが最善か?
激しい葛藤と瞬間的な思考の末に佐藤が導いた結論は、まさにその場で、大声を出すことだった。
「女性が襲われてます! 助けてください! すぐに来てください!」
警察に通報していることを装ったわけである。
その声に驚いただろう犯人は、クソが、いいとこだったのに、と悪態をついた。倉庫の裏側から飛び出してきた黒い影は、五メートルほど先の路上から佐藤を見つめ、それから舌打ちをして逃げていった。
どうやら、犯人は単独犯だったようである。
被害者のところへ駆け寄ろうかとも思ったが、そこには自制が働いた。佐藤は、倉庫の死角に沈んでいる見えぬ被害者へ、声をかけた。
「あの、警察には通報してないんで。必要だったら、呼びますけど」