見出し画像

◯拷問投票186【第三章 〜正義と正義〜】

 しかし、反対するのも簡単ではなかった。およそ人間の所業とは思えないほどに残虐な犯行だ。ここで反対することで、自分の人間性が傷つくような気もする。反対しないのが良識なのではないか、という倫理的な感覚だ。
 いまのところ、どちらに投票するのか、決まっていない。
 佐藤が決めかねているうちにも時は流れ、八月も半ばを迎えている。
 太陽は情熱的に燃えさかり、地上の水分はみるみるうちに蒸発していく。
 今朝のニュースでやっていた予報によれば、午後のピーク時には、都内の気温は四十五度を超えるらしい。命の危険もあるとして、不要不急の外出は控えてください、と気象庁も呼びかけている。
 その中、佐藤は堂々と外出した。まだ午前中だった。不要不急だと指摘されると、ぐうの音も出ない。すぐ近くで事件が発生したら誰でもヤジウマ根性を発揮するだろう、という自己弁護をかろうじて用意していた。
 とはいえ、なにか事件が発生したわけでもない。
 幅の広い歩道のおよそ百メートルほど先には、巨大な白い段ボール箱のような東京高等裁判所があった。どんと胸を張っており、権力を背景に待ち構えている。その足元の玄関口前の路上では、大きな街路樹で日光から身を守るようにしながら、数えきれないほどの人々が群がっていた。
 おそらく、合計では三百人を超えているのではないだろうか。ふたつのグループに分かれて、それぞれ黄色と赤で色分けされている。
 ひとりひとりの顔が見えないくらいに遠くからでも、十分に騒ぎは聞こえる。拡声器を通して放たれた大声も飛んできた。
『拷問は許さない! 民主主義は歴史に帰れ!』
 そうだ、そうだ、と一方の人々が塊になって叫ぶ。彼らは、拷問投票制度だけでなく民主主義そのものを否定している。
 しかも、否定するだけではない。新たにエリート型民主主義――知能レベルの高い国民にだけ投票権を与え、知能レベルの低い国民を政治から追放する考え――に基づいて憲法そのものを改正すべきだと主張する極左集団である。
 さすがに時代遅れなハチマキなどはしていない。彼らのほとんどが黄色いTシャツを着ているのは、彼らのイメージカラーだからだ。
 これに対して、闘争心の燃えたぎるような赤いTシャツで固めている一方の群衆も負けてはいなかった。
『このまま、民主主義を守り抜け! 国民が求めた制度は正しい!』
 こちらもまた、そうだ、そうだ、と声を上げるている。拷問投票制度の導入によってポピュリズムに陥った民主主義を悲観した結果、エリート型民主主義が勢力を拡大してきた。この流れに強く反発している彼らこそ、『国民のひとりひとりを守る会』である。
 このグループの最終目標は、名の通り、国民のひとりひとりが参加できるという伝統的な民主主義を守ることである。それに付随して、エリート型民主主義勢力の拡大阻止を第二の目標にしている。
 衆参両院で過半数を占めている現在の与党も、『国民のひとりひとりを守る会』の活動に賛同を示している。
 彼らは、直接的には、拷問投票制度については興味を持っていない。拷問投票制度に支持を示しているのは、伝統的な民主主義を否定する勢力が拷問投票制度を否定しているからだ。言ってしまえば、痛いところをカバーするためだと言える。
 どちらも、すさまじい熱狂だ。それこそ悲鳴を上げながら体温を高めていく地球とお似合いである。
 佐藤は、ひとり、これを見に来た。