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○拷問投票40【第一章 〜毒蛇の契約〜】

 この立場の人たちは、次のような例を挙げる。たとえば、その手に大きな石を握り、いまにも相手に対して投げつけようとしている人のことを、いまだ暴行や傷害の罪に該当しないにもかかわらず、その人に対して世間が激しい怒りを感じていて、その人を処罰しなければ国民が暴走するというだけの理由で不当に処罰しようとするのが、通説の見解にほかならない、と。
 しかし、この考え方はあまり意味がないだろう。そもそも、拷問投票の対象となる人物は死刑判決を受けている凶悪人物であり、純白なのに裁かれるというような事態は、冤罪でもない限り、起きえない。加えて、通説によれば、その司法判断が不当であることは了解済みなのであり、不当であるからこそ超法規的なのだと言える。
 以上のような見解の対立は、学説においては、社会説と個人説の対立として展開されてきた。
 個人説とは、積極的刑罰措置の発動についても主に犯罪者個人の犯罪行為のみを評価の対象とすべきであるという立場で、これに対する社会説とは、積極的刑罰措置の発動については社会の存在を大きなウェイトで考慮すべきであるとする立場である。
 個人説を主張する者はもともと少なかったが、二重処罰の禁止の観点が取り上げられるようになってからは、さらに減った。
 この観点から導かれるのは、死刑判決の中には個人の悪質な犯罪行為に対する非難は十分に含まれているためにこれを処罰の完成とみなし、そのうえで実施されるかもしれない積極的刑罰措置はやむをえない公益保全のための犠牲であると捉えることで、二重処罰を回避しようとする見解である。これは社会説に立つ論者の主張であり、この見解は通説として受け入れられている。この観点からして、司法判断を二回するという意味で二重処罰に該当してしまう個人説の立場は弱体化した。
 ひとつ注意が必要なのは、社会説とはいっても、社会の意見をそのまま鵜呑みにするという類のものではないことである。その類であるとすれば、もはや、国民による投票と大差がなくなる。
 ここでいう『社会』とは、世間の考えではなく、社会にとって最善の選択とはなにか、という社会的実益の側面のことである。
「ということでありますから、社会の雰囲気という漠然としたものも、裁判官の判断には影響する可能性があります。もちろん、裁判員とか国民とかは、そんな難しいことは考えていませんが、どちらにせよ、社会の雰囲気は重要だというわけです。ここでひとつ朗報がありますが……」
 長瀬が今回の打ち合わせで、いちばん伝えたかったことである。高橋実の視線がこちらに固定されたのを確認してから、「実は」と続けた。
「今回の裁判を担当することになっている裁判長の方ですが、田中正さんという五十代のベテランさんです。個人的な付き合いはないので、どういう考えをお持ちの方かは存じ上げません」
 そこまで言っても高橋実はピンと来ていないようであるから、おそらく、初見の情報であろうと思われる。
「この方は、以前に拷問投票に裁判官として参加したことがあり、そのときに積極的刑罰措置の実施に賛成されています」
 どんな反応をするのか、と凝視していても、とくに高橋実の表情は変わらなかった。一言だけ静かに、「それは有利です」と、なんだか冷たい物言いであった。
 ほんの少し期待外れだ。とはいえ、高橋実の現在の置かれている状況について思いを馳せることにより、この程度の心の乱れは、簡単に持ち直すことができる。長瀬は、ここまでの話を短く要約した。
「以上、拷問投票においては、国民の壁、裁判員の壁、裁判官の壁を突破することが必要です」