見出し画像

◯拷問投票285【第四章 〜反対と賛成〜】

 


    ※

 また理子が死んだ。
 佐藤は、もはや自分がなにを感じているのかもわからなかった。ただ東京の深い夜にずるずると吸い込まれていく。それだけ、わかる。いままで見たことのない闇が、ものすごい速さで分裂し、増殖していく。
 目の前では、理子が動かない。
 眼球を抉りぬかれた理子の眼窩からは、眼球とつながるコードのほか、ドライバーの柄も伸びていた。根元まで、ぐっさり、刺さっている。人工知能――AI――は頭部にある。そこをやられたら終わりだ。
 つまり、理子を起源としているAIは死んだ。
 もう二度と帰ってくることはないだろう。クラウド上に保存されていた理子の脳内状況に関するデータは、証拠隠滅のために、すでに破棄してある。法律の定めにしたがい、理子は一か月に一回のメディカルチェックとアップデートを続けてきたが、人型ロボットを制御するAIのバックアップは法律で義務付けられていない。もちろん、理子も、バックアップは行っていない。
 こういうリスクのためにも、人型ロボット専門の保険に入っていた。テクニカル生命である。保険会社のほうでバックアップもしてもらっていた。不幸にも、例のトラブルによって解約してしまったので、現在、保険は利用できない。
 もう完全に終わりだ。
 この世界から、理子は消え去った。
 ……いや、もともと、死んでいたのだ。佐藤は、思い直した。よくできた人型ロボットだったので、本当に理子が生きているかのように錯覚していた。苦しいことも割り切って前向きに生きているのだ、と。
 身勝手な妄想だった。真正面から現実を突きつけられることを恐れていただけだ。そのつけが回ってきた。
 夜とともに深まる内側の闇の中で、佐藤はまた、泣き続けたあの夜と同じように、なにかを探していた。夢を失った人が次の夢を探すように。一度死んでしまった人が生き返る理由を探すように。
 通り過ぎていくヘッドライトに断続的に照らされたまま、佐藤は、スマホを手にした。なにをしようとしたのか、自分でもわからない。小さなディスプレイを、あまたのニュース記事が流れていった。
『……ロボット狩りの背景には、単純なロボットへの恐怖だけでなく、社会への不満を抱く若者たちの存在もあったでしょう。彼らは理不尽な社会に納得がいかないのです。真面目に努力しても、賃金は増えない。びくびくしながら生きても、誰かに批判される。生きづらさを抱えている若者たちにとっては、残虐な殺人犯に相応の罰が下ることは当然のことであり、知識人たちが〈拷問はよくない〉などと余裕の達観を見せることに腹立ちが抑えられないのかもしれません。ハッキングされた人型ロボットたちが刑罰投票に反対しだしたことは、彼らの心に火をつけました……』
『……今回の騒動の中で三十代の男性を襲撃して殺害した少年は、警察での取り調べにおいて、〈人型ロボットが襲い掛かってくるものだと思っていた。人型ロボットと間違えて殺してしまった〉と供述しています。一部の専門家によると、人型ロボットに殺されることを恐れて先に殺したという内面の状況が本当であったとすれば、誤想防衛になる可能性があるということです……』
『……ネット上では、ロボット狩りに参加した人たちのことを、真の勇者だとして神聖視する声が多く上がっています。ロボットだけでなく生身の人間が巻き込まれてしまったことについては、仕方がない、罪に問うべきではない、という声があり、議論が巻き起こっています……』
『……ロボットが襲い掛かってくるという説得力のあるフェイクニュースが流れていた状況からすると、一種の災害だったとも言えます。災害時における咄嗟の行動に対して、いちいち器物損壊罪を問うというのは正義とは言えません。破壊されたロボットは気の毒ですが、これは合法的な犠牲だったのではないでしょうか……』
『……刑罰投票において積極的刑罰措置の発動条件が揃わなかったことに対して不満を抱く国民の一部が暴徒化しています。渋谷スクランブル交差点では、若者の集団が〈苦しみぬいて死ね〉と書かれたプラカードを掲げ、一時、交差点を占拠しました。緊急出動した警察と衝突し、負傷者が出ているということです……』
『……坂越被告人の収容されている東京拘置所前には、年齢性別を問わず、SNSでの呼びかけで多くの人たちが集まっています。憎悪に満ちた言葉が飛び交い、現場は激しく混乱しています……』
『……浅井総理大臣は、緊急のビデオメッセージを発表し、〈投票の結果は尊重されなければならない。いかなる不正な抵抗に対しても、我々は法律にしたがって適切に対処する用意がある〉としています。SNS上では〈国家、いらない〉というハッシュタグが拡散し、日本政府を打倒しようという声も上がっています。分断がさらに深まって内乱へとつながる可能性を指摘する声もあり、緊張が高まっています……』
 どうやら、国民たちはそれほど納得していないようだ。実際、国民による投票では圧倒的に賛成票が多かった。
 佐藤は、反対票を投じてしまった。国民による投票の結果としての一票を加えれば、現在のところ、賛成票と反対票が半々で拮抗している。もしも再投票の権利を行使すれば、賛成多数となり、拷問は実施されるだろう。
 ――どうする? お前は、まだ裁判員だぞ。
 佐藤は、あらためて考えだしていた。拷問に反対するという理性的な道を進むことが激しい苦痛を伴うのであれば――もしも、死にたくなるくらいに苦しいものであったとするのならば――そんなに頑張らないでほしい。
 汚れて生きてもいいんじゃないか。きれいなままで死ぬよりは。
 それにきっと、思っているほどには汚れない。相手は極悪人だ。それは正義の行使でしかない。
 かりに複数の正義が乱立しているのならば、もっとも客観的な方法で正義としての強度を測定すればいい。
 佐藤は、今朝、人型ロボットを轢いたあの男の ことを思い出していた。彼が言っていたように、正義は人工物であり、その中身は流動的だ。正義を測定したいのならば、投票をすればいい。
 ……いまやるべきことは、それかもしれない。いや、それしかない。佐藤は、拷問投票法第三七条と、同法第六八条を、頭に浮かべていた。