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○拷問投票6【第一章 〜毒蛇の契約〜】

 ドアの向こうには、パッと見でも印象に残るほどに、眼光の鋭い男が立っていた。そのほかの特徴はほとんど目に入らない。
 その視線は荒々しくはないので、精悍とは言えない。なんというか、邪な成分は含まれていない、とでも言えばいいのか。情状酌量の余地がありすぎる悲劇の悪役とでも呼びたくなる。絶対に動かない頑強な意思を貫きつづけ、自らの正当性をこれでもかと信じつづけている人物でなければ、このような眼光にはならないだろう。
 長瀬にとっては、それがあまりに予想通りだったので、むしろ困惑した。
 大学はこんな感じのところだろう、という高校生のときのイメージも、教授の仕事はこんな感じだろう、という大学生のときのイメージも、結婚生活はこんな感じだろう、という嫌味なほどに純粋だった若いときのイメージも、あらかじめ予想したイメージはどれもことごとく外れてきた。
 予想など、外れるためにある、とも言える。  しかし、いまドアの外で待ち構えている現実は、メールでのやり取りをしたときに長瀬の頭に浮かんできた仮説的な人物像がそのまま頭の中から飛び出してきたようである。予想通りでありすぎたせいで、むしろ現実感が希薄だ。予想を大きく裏切るような形で朗らかな挨拶をしてきてくれたほうが、長瀬にとっては現実感があった。
 長瀬はうっかり社会人としての礼儀を失い、まじまじと見つめてしまった。
 お詫びをするように、ちょっと目を伏せる。敵意がないことを示すために慌てた雰囲気を出しつつ、その場に立ち上がる。
「高橋実さんですね。こんな都会の大学まで、わざわざ、どうも」
 長瀬は、デスクを挟んで真向かいに置かれている一人用のソファを右手で示した。
「こんなのしかありませんが、どうぞ。あまり座り心地はよくないかもしれませんが、ごめんなさい。ここは、ほとんど来客を想定してない部屋なものですから」
 だったら、そんな研究室に初対面の相手を招くな、と自分で言いたいところである。社会人としてのルーズさはまさに研究者向きだな、と心の中で自ら毒づいた。
 高橋実は、いえいえ、というように一回、二回と頭を下げた。
 その動作に気さくな印象はなかった。長瀬の頭の中で応急処置として維持されていた短絡的なイメージをちょっとだけ塗り替えられるのには十分だったという程度である。
 高橋実は、かしこまったように、「お忙しいところ、失礼いたします」と、ゆっくりとした歩調で入室してくる。ドアがスライドして戻る。
 雑然とした室内を大きな一歩で進んできた高橋実は、デスクの目の前まで来てから、いまいちど深い礼をした。「あらためまして、高橋実と申します」と短く名乗る。その顔に笑みはない。
 長瀬は、明らかに重たい感情を抱えている目の前の人物をソファに座らせると、自らも対面する位置に座った。なによりも先に弔意を示すしかなかった。
「もう二年前のことでしょうか。わたしも当時、テレビニュースを見て衝撃を感じたことを憶えております。心よりのご冥福を」
 自然と低くなる自分の声に、映画館のような密閉された静寂を感じる。唇を一文字に結んだ高橋実は、目を伏せたまま、静かに顎を引いた。
 高橋実の置かれた状況を知ったのは、一週間ほど前、メールでやり取りをしたときだ。高橋実は犯罪被害者の遺族である。事件は二年前のこと、荒川区内で発生した若い女性を狙った連続殺人だった。大量殺人だったために事件の捜査や整理が長引いた影響で、ようやく今年になって東京地裁で公判が始まろうとしている。その一連の事件の中で最初に殺害された当時二十歳だった娘の父親、それが高橋実である。
 メールにて要件は明記してあった。拷問投票の制度に批判的な見方をしていない法学者の長瀬からぜひ制度の子細について説明を受けたい、とのことだった。その目的までは書かれていなかったが、想像は容易である。
 いまや、高橋実の発する重苦しいオーラを前にして、ただの想像は確信に移りかわっていく。
 のっそりと目を上げた高橋実は、ソファに座ってからの第一声で告げた。
「先生。助けてください。犯人に、しかるべき報いを」
 微かに充血したせいで稲妻のような線が走っているその目が、声量が小さいにもかかわらず尖った声と調和している。
 呆気なく予想がまた当たった。刑法全般を専門としている長瀬は仕事柄、犯罪被害者やその遺族の方と会話をする機会が多い。その中でも、これほどに犯人への強い恨みを肌で感じるような遺族の方は少数派かもしれない。非現実的なほどに、ありありとした強い怒りが目の前で息をしている。
 そりゃそうだよな、というのが長瀬の本音だった。