【紹介】裁判員裁判に出てくる社会常識について。
みなさん!
判例って、読んだことありますか?
裁判所のホームページに無料で掲載されてるので、誰でも見れますよ。
ちょっと前に物議を醸した、あの、第一審の死刑判決を破棄して無期懲役に自判した高裁判例も出てます。
刑務所に入りたいがためにトラックでふたりを殺害した事件ですが、「生命軽視は甚だしいが、それが著しいとは言えない」みたいな判決でした。国民は怒ってますね。
その判決の是非を判断することは僕にはできませんが、裁判って、公平性が大事だったりするので、そのへんの悩ましい事件だったのだと思います。
でも、基本は、裁判員裁判の判決は一定程度、尊重されることになっているようです。
今回は、僕が読んだ判例の中で興味深かったものを紹介します。
それは、こちら↓
札幌地裁の判例で、事件内容としては、風俗嬢に入れ込んだ男が精神が不安定になってしまって、その風俗嬢の自宅にて、風俗嬢の胸腹部を包丁で無数回にわたって刺し、よって出血性ショックによって死亡させた事件です。
懲役20年の判決なので、加重なしの有期懲役刑としては最大です。刑としては重め。
量刑の理由としては、計画性があること、強い殺意が認定できること、執行猶予を受けている身なのに重い犯罪に手を染めたことなどを挙げ、強く非難できるとしたうえで、
長年の交際相手を失ったことによる人格の歪みを主張する弁護人に対し、それは精神障害ではないし、一方的に不安を抱いて自己中心的に殺害を決意したのであって、人格の歪みを酌むことはできないとし、
量刑傾向の中でも重い部類に属する事件であることを確認し、また、反省や謝罪もなく、被害者遺族が厳罰を望んでいることも考慮し、懲役20年に量定した、ということらしいです。
僕が注目したのは、人格の歪みに対する裁判所の判断です。
本文はこんな感じになっています↓
Aというのは被害者の女性の方です。
「Aとの何気ないやり取りから勝手に不安を抱き、そのような不安をAに打ち明けたり話し合ったりせずに不安を増大させた挙句、一方的に殺害を決意して実行したのであって、悪い意味でのうがった見方に基づく自己中心的で身勝手な犯行として非難できこそすれ、このような人格の歪みを酌むべき事情と見ることはできない」とあります。
この部分ですが、なんとなく、裁判員の意見ではないか、と感じます。
裁判官はこんなこと言わないだろうと思うので。
この部分を読んだとき、僕は正直、無理解だな、とは思いましたが、その無理解なところに社会らしさがあるな、と感動しました。
これが裁判員裁判なのだ! と僕は思ったのです。
死刑かどうか、無罪にするかどうか、そういうところに目がいってしまいますが、
そういう結論だけじゃなく、結論に至る過程にも国民の考えは反映されているのだな、と。
この例の場合、「不安を打ち明けたり話し合ったりせずに不安を増大させた」という箇所から、
不安になったときは相手に相談したり話し合ったりすべきだ、という、(少し偏った)社会常識が窺えます。
もちろん、これは社会常識に過ぎないのであって、特定の性格類型の人たちにとっては無理なお願いですが、
司法への国民の信頼を維持するためには、このような社会常識を基にした司法判断が不可欠でしょう。
僕が裁判員だったら、「相手に相談することが著しく困難で、不安を強めていく傾向のある人はいる。そういう人は対人感受性が強いだろうし、なにかトラウマ的な経験が起因となっている可能性もあり、一概に自己中心的だとは言えない」と反論しますが、(もちろん、事件の詳しい内容は知らないけど)
おそらく、多数派はそうは思わないでしょう。裁判にはちゃんと国民の考えが入り込んできてます。
これが重要なんじゃないか、と思いました。
裁判って、頭のいい人たちが、わけのわからない理論を駆使して、一般の感覚では理解しがたい結論を導く、というような悪い印象がありません?
裁判が変な結論を導くのには、やむを得ない背景があるわけだし、
国民の思い通りに裁判したら、それは国民に返ってくることになるから、国民のためにも裁判が暴走してはいけないわけであって、
事実認定や量刑に制約があるのは仕方がないです。
でも、この例のように、おそらく量刑にはそれほど影響してないけど、量刑理由の中に国民の意見を反映させることによって、
裁判の悪い印象を少しは拭うこともできるんじゃないか、と。
大事なところです。
僕がいま書いてる『拷問投票』では、メチャクチャ、国民が暴走します。
でも、暴走するのにも相応な理由があるのかもしれない、というのが大事なところです。
みなさんも、興味があったら、判例を読んでみてください!
では。