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◯拷問投票289【第四章 〜反対と賛成〜】

 


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 見上げれば、風景画のように雲が静止している。嵐が過ぎ去ったあとのような穏やかさが漂っていた。
 見覚えのある小さな看板には、『霊園はこちら↓』と書かれていた。矢印にしたがい、木々に包まれた狭い小道をふたり縦に並んで歩いていた。
 目の前の白いTシャツには汗が滲んでいる。以前にやってきたときよりも暑いが、その背中にはいつもよりも軽さがあった。
「大丈夫ですか。先生」
 振りかえりざまに発された声も、力が抜けている。
「もちろんですとも。ここ半年の中でいちばん身体が動いています」
 言いながら、こっちを見ている高橋実の顔へと焦点を合わせた。頬に流れる汗。気遣うようにわずかに上がった口角。相手の心を直接に見つめているような透けた黒目。解釈が難しい。けっして喜ばしそうではないし、楽しそうでもない。見ようによっては、どこかに隠れた棘が隙をついて飛び出してきそうに見える。それでも少し毒が抜けたようにも、長瀬の目には見えた。
「あと少しです」
 丁寧に言葉を包んで渡された。長瀬は、深くうなずいた。ふたたび前へと向き戻る高橋実の緩やかな動作を、感慨深く見つめていた。
 佐藤龍が実施したネット上での投票では圧倒的に賛成への支持が多く、これに基づいて佐藤龍は再投票の権利を行使した。すべての裁判員の再投票の権利が失われた時点において投票結果――賛成が六票、反対が四票――が確定し、はじめて積極的刑罰措置の実施が決定された。拷問投票法第七〇条の規定により、被告人側は即時抗告をしたが、すぐさま棄却された。
 拷問投票法第七七条の規定により、被害者遺族である高橋実には東京拘置所から拷問を始めることについての報告があった。本日の正午より、一か月間に渡る合法的な拷問が始まることになる。
 長瀬は、スマホを手に取った。ホーム画面によれば、現在は午前十一時半である。そのときが刻々と迫ってきていた。
 まとわりついてくる汗をあるがままに流しながら、ふたりは無言のまま、契約の地点へと足を進める。
 時間はかからなかった。