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○拷問投票33【第一章 〜毒蛇の契約〜】

「第四号には、いま高橋さんに読み上げていただいたものを含めて、いくつかの例が列挙されたうえで、より抽象的にひとつの要件に要約されています。それはたしか、『国民感情が大きく揺れ、投票権を与えられる予定の国民の多くが理性的な投票をできないと認められるとき』だったと記憶しますが……」
 高橋実は、手元の解説書に目を走らせてから、「ああ、はい、そうです」と、また目を上げた。
「そんなことは、ほとんどありえません。『国民の多く』という表現をどのように解釈するかというのが分かれ目ですが、たとえ国民の半数以上というようなレベルの母体の大きさとしては解釈しなかったとしても、国民のほんの一部のこと――たとえば一万人の国民のこと――を『国民の多く』だと解釈することはさすがにできません」
「たしかに、わたしの感覚でも、少なくとも全体の一割くらいはいないと『国民の多く』とは言えないような気もします」
 高橋実は、腕を組んだ。
「しかし、それでも、少ない気がするくらいですね。『国民の多く』といわれると、もっと多い気がします」
「ほとんどの専門家も、そう考えています。それはある意味、当然でしょう。この要件も含めて、第二項に規定されている要件はどれも、お飾りだからです。現代のようにメディアが多様化している時代では、国民はさまざまな多様な情報に晒されています。国民の多くが、感情を揺さぶられ、理性的な投票をできないなどというようなことは、現実的にほとんどありえない要件だと捉えて間違いないでしょう」
 そういうわけで、第四条第二項についても、憂慮すべきものはない。
「最後に、第三項です。これは拷問投票法が制定されたあとに、実務の状況を踏まえて改正されたときに新たに加わった規定です」
 第四条の二に規定されている無投票付き死刑を新たに創設したときに、同時に創設されたものである。
 そのきっかけとなったのは、拷問投票制度の運営に対する調査研究ではなく、ある個別の事例であった。
「二回目の投票のときのことでした。その事件で亡くなった被害者の遺族の方が『わたしの娘は野蛮な復讐など、望んではいない』という趣旨の発言をして投票の実施に反対したのです。それが世間的に注目を集めることになりました。この件をきっかけに、被害者の関係者が望まないならば国民としても不満はないだろう、というポイントがクローズアップされることになり、積極的刑罰措置やそれに向けての投票の対象から除外をする際に、関係者の意向を尊重することになりました」
 そのために新たに加わった第四条第三項の規定によれば、その事件に関係する犯罪被害者等の過半数が投票の中止を裁判所に請求すれば投票が中止になる。
「しかし、これも気にする必要はないだろうと思います」
 長瀬は、声に少し明るさを混ぜた。
「遺族の気持ちを考えれば、法的に許容されている刑罰を正式な手続きに基づいて実施することに対して抵抗感を抱くことはまずないのではないか、と」
「まあ、そうでしょう」
「あ、ごめんなさい。いえ、その……そういうことです」
 目の前の相手がまさにその遺族であったことを思い出し、長瀬は、狼狽した。目の前の話に集中すると、それ以外に意識が向かなくなるところがある。学者としては適性があるかもしれないが、対人コミュニケーションにおいては致命的だ。長瀬は、いまいちど気を引き締めることにした。