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◯拷問投票185【第三章 〜正義と正義〜】


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 裁判員としての重い一票を握っている以上、佐藤龍は、生半可な気持ちで論戦を眺めることはできなかった。とくにSNS上で展開している拷問の是非をめぐる激しい対立を無視することはできない。
 SNS上では、AIによるおススメ機能によって、似た考えの人たちが自然に結びついていく。その結果、立場の違う人たちがお互いに接触しなくなる分断状態が生じている。双方の立場の人たちはそれぞれに発言力のあるアカウントに群がりながら、グループ内で自己正当化を強めていく。必然として、論戦が勃発するのは、影響力のあるアカウント同士が中立派を誘い込むためのパフォーマンスをするときである。中でも平和刑法の会の代表である川島はよく登場する。
 佐藤が見た限りでは、誹謗中傷を除けば、双方の主張は、それほど多様であるとは言えなかった。
 拷問に賛成する人たちは、なにより被害者や被害者遺族の存在を重視する。被害者のひとりは乳房を切断されるという拷問的な方法で殺害されたのだから、犯人が拷問されることで罪刑が均衡するはずである。そのうえ、ただの死刑では被害者遺族が納得できない、あまりにも可哀想である、という主張だ。
 これに対して、拷問に反対する人たちの多くは、人間の限界を主張し、刑事司法の制度そのものを否定しようとする。人間がやっていることだから、完全ということはない。不完全なシステムの中に、人間の死や精神的な苦痛を生じさせる機能を含めるべきではない、というのだ。
 面白いのは、日本弁護士連合会の対応だ。
 なによりも人権を擁護するはずの日弁連は死刑制度については引き続き廃止を求めているが、拷問投票制度については批判していない。それゆえ、死刑には反対するが、拷問には反対しない。刑事司法の欠陥を誰よりもわかっているだろうに、なぜか、拷問だけ黙認している。その理由はわからない。憶測としては、被害者や被害者遺族の立場に配慮しているのではないか、と言われている。
 今回の事件の評議に参加した佐藤としては、反対派が主張するような不完全性にかなりの心当たりがあった。
 死刑と拷問投票を選んだ最終的な判断は揺らいでいないが、自分たちの評議での話し合いの内容が正しかったのかと言われると、一概にはそうとも言えない。反省すべきところは多々あった気がする。
 少し感情に流されてしまったところもあった。
 深い議論を避け、評決で簡易にまとめてしまったところもあった。
 平和刑法の会から指摘されているように、一部、「疑わしきは被告人の利益に」の原則を忘れているところもあった。
 裁判員としての経験を通して、裁判はやはり人間の手で行われているという実感を得ることができた。佐藤は、すぐさま拷問に賛成することはできない。